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小説をおいております。 『いざ、出陣 恋戦』シリーズの二次創作、『神の盾レギオン 獅子の伝説』の二次創作、そして、高校生の時に書いた読まれることを前提にした日記と、オリジナル小説を二編のみおいております。
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HN:
天音 花香
性別:
女性
職業:
主婦業メイン
趣味:
いろいろ・・・
自己紹介:
小学生のときに、テレビの影響で、小説を書き始めました。高校の時に文芸部、新聞部で文芸活動をしました(主に、詩ですが)。大学時代、働いていた時期は小説を書く暇がなく、結婚後落ち着いてから活動を再開。

好きな小説家は、小野 不由美先生、恩田陸先生、加納朋子先生、乙一先生、浅田次郎先生、雪乃 紗衣先生、冴木忍先生、深沢美潮先生、前田珠子先生、市川拓司先生他。

クリックで救える命がある。
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こんばんは、こんな時間に天音です。

えっと、「緋い髪の女戦士」と平行して、今まで書いてきた小説をアップしていこうと思っています。

分りにくいと思いますので、
リンクに、それぞれのタイトルとトップページを載せますので、
そちらから読んでいただけると幸いです。

コメントとか頂けるととても喜びます。



ココから小説

<月に恋した>




空で一番好きなものは月

夜の暗闇の中でその光は優しく道を照らしてくれる

なんて心強いんだろう

強すぎる太陽より月に魅力を感じるのは

私の名前が月子だからだろうか





 その年の桜は遅咲きで、満開を迎えてから数日の雨風のせいですぐに葉桜になった。野乃原月子が初めて受験生となった春。月子はその桜の木をぼんやり見つめていた。残った花びらがはらはらと涙のように流れてくる。
「儚い。だから日本人は桜を愛すのかな。桜には『あはれ』がぴったり、なんてね。急ごうっ」
 月子は中学校へと続く桜並木を歩く足を速めた。


 中学一年生の時からすでに進学塾に通っていた月子は、前々から地区で最難関の高校を目標とさせられ、勉強してきた。今年になって学校の先生も、塾の先生も、口を開けば「受験生、受験生」と言うのにうんざりしていた。多感な時期にその言葉は、月子を「受験」という断崖絶壁に追いつめていくようなものだった。月子の不安な気持ちに呼応するかのように、成績が、絶頂期だった中学二年生のときからじりじりとではあるが下がってきていた。それゆえになおさら耳の痛い言葉なのである。中でも。
(授業の度に言う田村先生!)
 塾の数学の先生だ。今年、塾での月子のクラス担任になった。以前の数学の先生はおじいちゃんのようで親しみが持てただけに、なおさら、田村の、受験を意識させる、身にまとう冷たい雰囲気が嫌いだった。色白で眼鏡のよく似合う、やや細身の男性で、寒色のスーツのときが多い。
(そうそう、こういうストライプのワイシャツを着ているときなどさらに近寄りがたい気がする。私だけかな、こんな風に感じるの)

「野乃原」
(こうやって人のこと無機質に呼ぶのよね)
「野乃原、君のことですよ。呼ばれているのが判っていますか?」
(!)
 月子はぼんやり田村の容姿を観察していたため、ここが塾で、数学の時間であることを完全に忘れていた。
「は、はい」
 罰が悪そうに月子は目をそらして返事をする。
「さっきから、ぼんやりして、君は授業を聞く気があるんかね?」
 この冷たい声が心にぐさぐさくるのだ、と月子はやはり思う。今まで先生たちに苦手意識を持ったことはなかった。しかし。
(やっぱり苦手だ、この人)
「返事をしなさい」
「はいっ。すみませんでした」
 と謝りつつ、目は反抗心満々で月子は田村を見返した。田村はそんな月子にため息をつく。
「こんな反抗的な生徒は初めてですね。君は受験生の自覚があるんか? 受験では」
「一点に何人もが並ぶ、ですね! 授業を中断させてすみませんでした。先をどうぞ!」
 いつも何かしら怒られて、授業を説教で中断させることが多いため、月子はクラスメイトに申し訳なく思っていた。だから田村の言葉を遮ってプリントに目を落とした。
(中三になって何度目だろう。もううんざり!)
 月子をさらに苛立たせるのは、これまで教わってきたどの先生よりも田村は授業が上手いことだ。少し早めのペースだが、要領を得た説明で、解りやすい。田村の手にかかれば、難問もすんなり解けてしまう。
(いつかギャフンと言わせてやるんだから!)
「野乃原!」
「はいっ!」


 田村との出会いは、中学三年生になってからではなかった。中学二年生のとき、他の先生と試験結果が張り出されている壁の前で話しているときだった。いつの間にか知らない先生と話していたのである。それが田村だった。そのときも確か「三年生になったら……」と言う話が出ていて、月子は漠然とこの先生は厳しそうだと言う印象を持ったのだった。ここまでとは思わなかったけれど。
(私はギスギスした雰囲気より、柔らかな雰囲気で受験を迎えたほうが、心理的にいいと思うんだけれどな)
 しかし、実際はそうも言っていられないのかもしれない。

 塾校舎の表で母の迎えの車を待ちながら、前に立つ桜の木を見上げる。完全に葉だけになっていた。青々とした葉は新しいエネルギーを感じさせる。
(桜も動き出したか。私もそろそろ変わらなきゃいけないのかな)
「桜も葉を広げ始めましたね」
 意外な声が隣から聞こえた。見上げると、田村の横顔があった。月子が戸惑っていると、田村は月子に視線を落として、
「意外そうですね。私が桜を語るのは変ですか?」
 と笑った。笑ったのだ。
「あ……。い、いえ」
「君は思ったことがよく顔に出るね」
 月子は黙った。
「時が経つのは早いですよ。特に受験までの一年は。毎年経験していますが、毎年思います」
 月子は穴が開くほどに田村を見た。田村は独り言を言っているかのようだった。とても授業中の田村と同一人物とは思えなかった。
「私の授業はきついですか?」
「数学は苦手なので」
「……そうですか」
 会話が途切れた。田村の頭上に浮かぶのは薄雲に霞む晩春の月。
 騙されるな、と頭で警報が響いた。この人はあの冷たい田村先生だ、と。月子はぷいと顔をそらすと、黙って車が来るほうを見つめ続けた。田村はなかなか去ろうとしない。そこに母の車が来るのが見えた。月子の反応を察したのか、
「来ましたか。さようなら」
 頭上からの声に横を見ると、もう隣に田村の姿はなく、塾に入って行く後姿だけが見えた。


 その夜、月子は夢を見た。大きな朧月が、青々とした葉を茂らす桜の木の上に静かにたたずんでいる。その姿は不思議だった。葉の緑に押されて、控えめな月は、朧ろ気でありながらなぜかいっそう謎めき、印象的に見えた。
(こんなの違う。朧月は夜桜の上でいっそう神秘を増すのだもの)
 夜中、目が覚めても残る強い印象に、月子はその後眠ることができなかった。

 
 それからというもの、月子の岸川だらけだった夢に、無言の月が時折出てくるようになった。月に安心感しか覚えてこなかった月子にとって、月の夢を見ると心がざわつくのは不思議だった。
 岸川は、塾で一緒の男子で、月子の好きな人である。
 四月の席替えでやっと隣の席になった。月子はそれを活かして、会話をしようと奮闘していた。受験生の月子にとって、同じ志望校を目指す岸川の存在だけが救いだったと言っても過言ではない。しかし、それも田村にいつも阻まれていた。
「あのさ、問五なんだけど」
 田村が黒板を向いている時を見計らって、月子は岸川にこそこそと話しかける。しかし。
「野乃原、またか。授業中の私語はやめなさいと言ってるのだが?」
 この会話も日常茶飯事になっていた。その日、月子は悔しくなって反撃をしてみることにした。
「私語ではありません。質問です。質問さえ駄目なんですか?」
 そんな月子の言葉に、田村は少し目を細めて、
「ではなおさらですね。なぜ私にしないんですか?」
 と言って、黒板のほうに向き直った。月子は敗北感に顔が赤くなるのを感じた。岸川が、気遣わしげに目線を送ってくるのに、大丈夫と無言で返したものの、月子は黒板を滑る田村の指を恨めしげに見るしかなかった。
(受験生なのに、何やってるんだろう私……)


「田村先生って怖いよね」
「野乃原いっつも怒られて、可愛そう」
 塾の友達はそう言ってくれるが、田村の態度が変わるわけではない。それに。
「なんだかんだ言って授業中断するのには変わりないのよね。ごめんね、これからは気をつける」
 いいよーと口では言ってくれてるが、受験生となると内心では自分をよく思っていない子もいるかもしれない、と月子は少し不安だ。
「ただ、もう一度だけ試したいのよね。ごめん、ちょっとだけ待って」
 月子はそう言い、早速次の授業で試してみることにしたのだった。
「田村先生、問七解りません」
 これが月子のささやかな挑戦だった。田村は、黒板を向いていたその体をゆっくり月子の方に向けた。
「はい?」
「ですから、問七の解き方が解らなかったので説明してください」
 田村はちょっと目を見開いて、次の瞬間少しだけ笑った。
「他に問七、解らんかった人は?」
 数人が手を挙げた。
「では説明しましょうかね」
 田村は少し嬉しげに黒板に向かうと、説明を加えながら、さらさらと式を書いていった。それは本当に見事な説明で。
「どうですか? 解りましたか?」
「……はい」
(完全敗北だ)
 その後、月子は素直に質問するようになった。そして、その度に田村は丁寧に教えてくれたのであった。





 受験生にゴールデンウィークはない。塾に缶詰である。窓からは五月らしい爽やかな日差しが降り注いでいて、教室で勉強しているのが勿体無いほどだ。
 突然、ぽこんとテキストで月子は頭を叩かれた。ぼんやり見上げると、田村の顔があった。
「気持ちは分かりますが、今はプリントに集中しなさい。休みを返上しているのは私も同じです」
「そっか。確かに」
 思わず月子が声に出すと、田村は苦笑いを浮かべた。
「今のは失言でしたね」
 田村の人間らしい反応に、月子は可笑しくなって笑ってしまった。
「のーのーはーらー」
「すいません」
 一ヶ月もたつと人物というものが解ってくる。
 最初に感じていた、畏怖に近いものは無くなり、ただ、「厳しい」という形容詞が当てはまる先生、というのが月子からの印象である。そして、それに「律儀」「ちょっと無神経」「でも悪い人ではない」が加わった。
(それにしても、数学多いな。仕方ないけど。しかも担任だから田村先生の顔よく見るよなあ)
 これほど眼鏡の似合う人も珍しい、とか、昼間なのに電気をつけてるこの教室はなんなのかとか、気がつくと指が止まっている月子に、今日何度目かの「野乃原」コールが響いた。


 「受験生」という言葉に慣れつつあった中、それを痛感するときが連休明けにやってきた。一度目の志望校面談である。月子は母と隣り合って、田村と向かい合っていた。
「えー、野乃原さんの判定はこちらです」
 田村は模試の結果表を取り出し、判定を指差した。田村の白く長い指が指した判定に、月子の母は、
「まあ、よかった」
 と声を上げた。が、月子はこれほどこのアルファベットに嫌悪感を感じたことはない。「A」それは、なぜか月子を不安に駆り立てた。こんな判定は無意味なように感じた。確かに、合格者は「A」判定の人が多いかもしれない。でも、「A」判定だからと言って、必ず受かるわけではない。現在、月子の成績ベクトルはやや下を向いている。こんなときに限って、先生方の言う「一点に何人もが並ぶ」が頭の中で木魂する。じゃあ、何点下だったら、「B」になるのだろう。一問一点ということはないから、後、何問間違えば「B」になるのだろう。
 机の上で組まれた、月子の拳がカタカタと音をたてて震えていた。その頃には田村の形のよい爪がぼやけて見えていた。
「野乃原?」
 田村が不審そうに尋ねてくる。
「月子?」
 月子の母もなぜ月子が泣いているのか解らない。月子は。
「A判定だからって受かるとは限らないですよね。まだ五月ですよ? それにこんな判定もらってて落ちたら惨めすぎる!」
 月子は搾り出すようにそう言うと、席を立った。そして、教室を逃げるようにして出た。
「月子!」
「お母さんは、ここで待っていてください」
 田村は訳のわからないまま月子の後を追った。
「野乃原! いったいどうしたんだ!」
 正直月子にも解らなかった。「B」だったら安心したのか? 否。もっと不安だ。
「喜んでいい判定だぞ?」
 田村の動揺した声に、月子は涙にぬれた目で田村を睨んだ。
「ええ。そうですね。でも、これは入試ではありません。本番ではありません。「A」をとったからといって何になるの? 次の模試は「B」かもしれないのに、志望校を決めるんですか? 落ちたら誰が責任とってくれるんですか?」
「野乃、原」
 田村は珍しく困惑していた。
「それは最近、君の成績が、下がり気味だからそういうことを言うのか?」
「……それもあります」
 田村が一人ひとりの成績をよく把握していることに少し驚きながら、月子は頷いた。
「野乃原。確かに、誰も責任を取ることはできない。だから、誰も君の志望校を強制はできない。後は君がどこを受けたいかだ。でも言っておく。私は君の成績は心配していないよ。むしろメンタルを心配している。模試の前に君が不安定になるのに最近気付いたから」
「!」
(なぜこの人は時々鋭いのだろう)
「それは当然です。模試の度にクラスが落ちないか、心配しなければいけないんですから!こんなの綱渡りと同じです!」
 その綱渡りは受験当日まで続くのだ。
「不安にならないほうがおかしい!」
 月子の高い声が、塾の玄関前のフロア中に響き渡った。
「そ、それは……」
 田村の顔がこわばった。月子はそんな田村から目をそらす。
「――この塾を選んだのは私ですし、文句は言えませんね。でも受験生はみんな同じ気持ちだと思う。それでも、合格したいので頑張るしかありません。とり乱してすみませんでした。志望校は変えません。帰ります」
 月子は軽く頭を下げると、田村の横を通り過ぎて、母の残る教室へ戻り、母をつれ出した。母が田村に謝っている間、月子はそっぽを向いていた。
「まあ、この子ったら。田村先生、本当にすみません」
 母が月子の頭を無理矢理下げた。月子は無言だった。田村は、
「野乃原。私も努力しよう。学力の面だけでなく、メンタルのサポートもすることを」
 と言ったが、月子は無言で頷くだけだった。田村を傷つけたのが解って、苦い思いが月子の心に広がっていた。帰り、車内で母が、
「月子、A判定なのに、泣くのなんて、あなたぐらいよ。それに、先生にもあんな失礼な態度をとって。いったい何が不満なの?」
 と苛立った声で言ってきたが、月子は何も答えずに、窓にうつる街灯の明かりを見ているだけだった。





 つつじが咲いて、ひなげしが咲いて。この次期は新緑とともに様々な花が色鮮やかに道端を賑わせる。が、月子の心は重い。志望校面談の日を思い出すと、自然とため息が出る。「もうすぐ着くわよ。下りる用意して」
 母の言葉にますます月子の心は沈む。田村にどんな顔をして会えばいいか月子は解らなかった。
(今日は五月十二日。私の誕生日なのに。全然いいこと無い)
「ほら、下りて。次の車来てるから」
「はあい」
 車から下りて、塾の校舎を見上げる。RPGでいうとラスボス戦の前みたい、なんて思いながら、月子はいつもより重く感じられる塾のドアを開けた。
「こんにちはー」
 塾校舎に入ると、先生方がいつも挨拶の声をかけてくる。もちろん月子もそれに儀礼的に答える。
「こんにちはー」
 月子は靴を脱ぎながら、顔を上げずに言って、そのまま教室への階段を上ろうとした。田村がいると気まずいからである。ところが。
「野乃原!」
 田村の声に自然と背筋が伸びる。月子が声のした方を恐る恐る振り返ると、田村と目が合った。
「……」
 月子が声を出せずにいると、
「こんにちは、野乃原」
 と言って田村は笑った。
「あ……」
(先生は大人だ。なんだか心配したのが馬鹿みたい)
 そう思うとなんだか泣きそうになって、月子はそれを誤魔化すように、
「こ、こんにちはっ!」
 と大きな声で返した。田村はそれにまた笑い返しただけだった。そして、その日も普通に授業は行われ、終わった。受験生の一日は学校から始まり、塾で終わる。そんなものである。
 でも。
 月子はベットの上で枕を抱きしめ、一人微笑んだ。授業の合間、塾の友達が「今日、野乃原、誕生日だよね。おめでとー!」と言ってくれたとき、隣で岸川が「そうなん? おめでと」と言ってくれたのだ。
(いいや。今日は大満足。先生も普通に接してくれたし)
 乙女心となんとかとは言ったものである。



 様々な花が咲くこの時期、月子の最も好きな花も咲き誇る。
 薔薇である。中でも七分咲きが美しいと月子は感じている。中央に蕾の形を残し、それをとりまくように花びらが開いている。端の部分は外向きにカールし、それが全体で見たときに角の様になり、花がまるで結晶のように見える。その姿は完璧。放つ気品は月子の憧れそのものである。気取っていると感じる人もいるだろうが、それでも惹きつけられずにはいられない美しさが薔薇にはある。それには香も一役かっているだろう。濃厚で独得の薔薇の香。その香に包まれると、自分が、一瞬どこぞのお姫様になったような幸せな気分になるからたまらない。
(いい香! あっ、あの色いいなあ)
 月子の目にとまった薔薇は、花びら全体が薄いピンク色をしていて内端がほんのり黄色をしていた。綺麗というより可憐という言葉がぴったりな薔薇だった。早速携帯で写真を撮る。
「月子、何、うろちょろしてるの? 早く車に乗りなさい」
「はあい」

「今日、田村先生誕生日らしいよ」
 後ろの席の友人、加治瞳が言ってきた。今日は五月十九日。どこからそんな情報仕入れてくるのだろう、と月子は感心する。他の先生と違って、プライベートについて何も語らない田村は、生徒の興味の対象になっていた。
「ふーん」
 月子は、田村が自分の誕生月と同じだということに、心がなぜか揺れた。
「田村先生、誕生日おめでとうございまーす」
 田村が授業のために教室に入ってきた瞬間、教室から上がった声に、田村は少し驚いたようだった。
「全く、どこから情報はもれるんですかねー」
 と呆れた声で言ったかと思えば、
「ちなみに、血液型はB型です」
 なんて珍しく自分のことを語った田村に、教室がわいた。
「えー、先生B型なのー?」
「A型っぽいー!」
 最近、田村が冷たいだけではないと気付き、女子生徒たちの間で田村は人気が上がっていた。
(……これも私と同じだ)
 そうぼんやり思い、
「なるほど、マイペースだもんなあ」
 と口にしてしまった月子に、田村が月子を見た。
「ほー、マイペース。私はマイペースですかね。誰かさんのほうがよっぽどマイペースだと思いますが。あ、そうか、君こそB型でしょう」
「う」
 図星を指されて何も言えなくなった月子に、田村は勝ち誇ったように笑むと、
「さあて、では、マイペースに授業をしましょうかね」
 と言ったのだった。その日から「五月十九日生まれ、B型」という情報がなぜか月子の脳裏にしっかり刻み込まれてしまった。苦手な先生と同じ星座で同じ血液型というのが嫌だったのだろうか。月子は自分でも解らなかった。
(それに、今は苦手とは思わない)
 それもなぞであった。あんなに苦手だったのに。
(ま、いっか)
 授業後、月子はあまり深くは考えずに、階段への廊下を歩いていた。その日撮った薔薇の写真を見ながら。月子の顔がほころぶ。
「何ですか、嬉しそうですね」
 後ろから田村の声がした。写真もしっかり見えたらしく、
「薔薇ですか。意外ですね、花好きとは」
 と言ってきた田村に、幸せをぶち壊された月子は、むっとして、
「いけませんか? 好きなんです。とくに薔薇が」
「いけないと言ってはいませんよ」
 田村は言って、くすりと笑った。
「君はデイジーとかのイメージですがね。道端の花も捨てたもんじゃないですよ」
 そう言って、月子を追い越し、行ってしまった田村に、月子は複雑な気分になったのだった。

 この頃見る月の夢は、もう朧月ではなく、初夏の月を思わせるものになっていて、それはどこか月子を安心させた。





 雨は嫌いではない。心が疲れているとき、それを優しく流してくれるから。でも梅雨は嫌い、と月子は勝手に雨を評している。
 近頃原因不明のイライラに悩まされている月子は、その原因を無理矢理梅雨のせいにしようとしていた。その梅雨の雫にぬれてしっとり美しく咲く紫陽花を車窓から見つめる。
(紫陽花は土壌がアルカリ性か、酸性かで花の色が変わると聞く。私の数学の土壌はころころ変わってるのかな。それとも、このじめじめした雨のせいで頭までおかしくなってるとか)
 ふう、と月子はため息をついた。そう、最近、月子は成績が安定していない。それも、数学がである。
(もともと苦手教科だししょうがないのよ!)
 それでは受験はすまされない。月子もそれは分かっている。でも、不安定な原因が判らないので、月子はなおさらイライラするのである。
 なんとなく、ぼんやりしながら授業を受けて、月子はそんな自分にも苛つきながら階段を下りる。
 最近よく見かける、フロアで田村を女子生徒が囲んで談笑、という光景を横目に、月子が靴を履いて帰ろうとしていると、
「野乃原」
 聞きたくない声が聞こえてきた。月子は聞こえなかったふりをして、塾を出ると、
「野乃原」
 と再度田村の声がした。談笑してたじゃん、と思いながら、
「はーい」
 と月子がしぶしぶ返事をすると田村が追ってきていた。
「言われることは解っていますね」
「解っています。数学の成績ですね。
きっとこの梅雨のせいですよ。先生知ってます? 梅雨晴れってとっても爽やかで、この次期の稲穂をよりいっそう青々と見せてくれるんですよ。私の数学もそのうち晴れの日がくるんじゃ、なんて……」
 月子は勢いよく言い返し出したものの、最後のほうは、声も小さくなり、探るように田村を見た。田村は、目を見開いて月子を見ていた。
(やばい、かも)
「じゃなくて、私の努力が足りないからですよね。頑張ります。本当にすみませんでした!」
 早口に月子はまくしたてた。
「……君は……。不思議な子だね……」
 田村は何と言っていいか解らない様子だった。
 雨が地面を叩く音だけが響く。
「えー。聞いてみたいんだが、なぜ君は数学が苦手なのかな?」
 今度は月子が意外そうに田村を見る番だった。
「なぜ? そうですね、見えないのに答えは一つに決まるから、ですかね」
「見えない?」
「国語には出典が、社会も歴史、地理、現存してますよね。理科も。私、数学が一番見えません。どこからその数字が来るのか、解らないんです。だからとらえどころが無いし、将来使うとは思えません」
 田村はちょっと考え込んでいるようだった。
「野乃原、もう一度、塾に入りませんか? 雨にぬれてしまいますし。今日なら君の好きなアップルティーをおごりますよ」
「はあ」
 よく解らないまま月子は田村の言葉に従った。

 田村は缶コーヒー、月子はアップルティーを手に長椅子に座る。
「さっきの続きですが。数学は確かに、五教科の中で最も学問らしいものです。学問は机上の論的な部分が多くあります。今習っている式などは今後役に立たない可能性のほうが高いでしょう。ですが、社会にでて、最も使われるのは数学なんですよ。数字が実態を伴うようになりますからね。ただ、君の望む形であるかは分かりませんが……。
高校での勉強は中学より、より学問的になります。大学はもはや社会の役に立つとかいったレベルではなく、自分が価値を見出せることをとことん追求する場所となります。結果的に、それが社会の役に立つことが多々ですが。学問とはそういうものです」
「では何のために今、私たちは我武者羅になって受験のために、勉強しているんですか?もっと社会に役立つことを今、学ぶべきではないんですか?」
 月子は心の底でずっと思っていた疑問を田村にぶつけた。自分たちのやっていることが無駄なんてそんなの悲しすぎる。
 田村は一口コーヒーを飲んだ。そして、独り言のように語りだした。
「そうですね。私は人生とは学ぶことの連続だと思うんですよ。ただ、それを教えてくれる学校はない。それは人間一人ひとりが違うから、テキストを作ることができないからですね、きっと。ただ、学校で、学ぶ姿勢は学ぶことができます。今君たちが学んでるのは、学ぶ姿勢だと思うんですよ。それに、多くを学べばそれだけ選択の余地が広がると言うメリットもあります」
 そこまで言って田村は下を向いてちょっと笑った。
「私はどうも文系に向いていなかったので、理系に進むしかなかった。勉強しておけば、と思うときにはもう手遅れのときが多いんです。だから君たちにはそうなって欲しくない」
 月子は、今まで見たことのないような田村の一面を見てしまった気がして、少し動揺した。
 田村は、心から生徒を心配している先生だ、と月子は思うと同時に、一人の男性なのだと感じた。
(先生……)
 月子は大好きなアップルティーをぐいと飲み干して、立ち、田村を振り返った。
「母が待ってるだろうから、もう行きます。今日の話、悪くなかったです。
今は。勉強を頑張ってみます」
 田村はふっと笑った。
「偉そうな言い方ですね。でも、じゃあ、頼みますよ」
「はーい。ご馳走様でした。この分は成績で」
 この日から数学の成績が上がったというわけではない。だが、月子は苦手意識は持たずに頑張ってみることにした。
 月子は思った。
(教師かあ。素敵な職業。私も、目指してみようかな)


 この時期、厚い雲に覆われて、月は姿を見せない。だから、時折見える月はよりいっそう綺麗に見える。秋の月には劣るけれど、雲間から少しのぞく影はあはれだ。





 時が経つのは早い。
 空にはたくさんの入道雲が浮かび、蝉の声が暑さを倍増させている。塾の夏期講習は午前中から夕方までなので、月子は自転車で塾に通っていた。太陽が背後からじりじりと自己主張してくる。
(分かってますって。夏のあなたは空の支配者ですよ)
 地上には、小さな太陽、向日葵が、けな気に太陽のほうを向いている。紫陽花を濃くしたような色の朝顔も咲くが、月子は向日葵の方が好きだ。真っすぐで潔い。朝顔も午後にはしぼむという面には惹かれる。
(どちらも、小学生のとき、育てた花。夏は、幼いころをなんだか思い出すなあ)
 麦わら帽子をかぶって、虫とり網を手に走り回っていた頃が懐かしい。横を通りすぎる子供たちを少し羨ましく思う月子であった。

「おはようございまーす」
「おはよう」
 階段を上がり、ドアを開けると、教室が冷房で真冬と化していた。温度差に思わず身奮いをする。
「宿題やってきた?」
「一応。これだけ多いとざっとしかやれないよね」
「ほんとほんと」
 時間になると、先生があわただしく階段を駆け上がってくる音が聞こえ、
「はい、授業始めるぞー」
 と言う声と同時に、授業がスタートする。一日の始まりだ。一日にしっかり五教科入っている。それプラス一教科、国、数、英の三教科の中から入っていることが多い。それぞれの教科の先生は、皆独特の雰囲気を持っていて、工夫を凝らした授業がなされる。学校で、缶詰になるよりかは、塾で缶詰のほうがよっぽどましである。クラス分けがされているのも、授業のレベルを詳細に区分できると言う点では悪いやり方ではないのかもしれない、と月子は最近は思うようになった。もちろん、分けられるほうとしては毎回心臓が痛むのだが。
 ポイントが効率よくまとめられたプリント。面白おかしく説明や、解説をする先生方。その中で田村の授業は、ある意味個性が無い授業かもしれない。でも、飽きないのはやはり説明の仕方が上手いからだろう。水のような印象を受ける。さらりとして、のどに浸透する。難問は軟水ではなく硬水で、なかなか体が、というより頭が受け付けてくれないけれど。そんなときは教室がいっそう寒く感じる。
(ん? 寒く?)
 授業後、月子が冷房の温度を確認するとなんと二十度であった。
(寒いはずだよ。エネルギーの無駄な消費。だから地球の温暖化が進むんだ)
 そう思って、月子は勝手に温度を上げた。これで明日からは寒くないはず、と思いながら帰ろうとすると、
「田村先生、かっこええわあ」
「うん、最初怖いと思ってたけどかっこいいよね。何気に優しいしー」
 とクラスの女子が言っているのが聞こえてきた。中でも友達の井上朱梨は完全に田村崇拝者になっている。
 朱梨は可愛い。色白で、長い黒髪に、京都弁がキュートだ。
(クールなのに、優しさを持ち合わせる。ま、確かに条件的にはもてそうな。でも)
「おじん、だよ」
 月子は自分でもなんでそんなことを言ったのか判らないが、気がついたときにはそう口にしていた。話していた女子がいっせいに月子を見た。
「お、大人言うてよ。同い年の男子より数段素敵やわ」
「ふーん。私は若いのがいいな」
 月子の一言にもめげない朱梨を見るとなんだか、いらいらして、月子は不機嫌にそう言った。にしては、最近岸川が夢に出てきていない。
 なんだか、嫌な気分だ。そう思いながら、その場を後にした。月子が階段を下りていると、また田村の周りにまた女子が群がっているのが見えた。最近、毎日の如く目にする。そして、その度に、面白くない気分になる自分が月子は嫌になる。靴を履くときは、そのせいでいつも不機嫌絶頂であった。
「野乃原」
 田村の声が後ろからする。月子は無視して塾を出た。
(たらしのおじんなんて最低!)

 月子はとにかくイライラしていた。


「この教室、暑くないか?」
 田村が授業中、ワイシャツの袖をまくって言った。月子は、
「昨日、あまりにも寒かったんで、設定温度を上げたんです。二十度でしたよ。半袖の温度じゃないです」
 と飄々と答えた。
「みんな、寒かったのか?」
 みんなではなく、半々ぐらいだろう。
 月子は。解説中のプリントに視線を落として、
「先生は説明してますし、暑いですよね。すみません、経費の削減にもなるかと思ったんですが、明日からカーデガンを持ってきます」
 と冷たく言った。田村はそんな月子に、ちょっとうろたえながらも、
「じゃ、授業を再開しようか」
 と、黒板に向きなおった。
 なぜこんな態度をとるんだろう。月子は自分でも解らず、苛立った。

先生を生徒が囲むのなんて、見なれた光景だ。朱梨が、白い頬を桜色に染めて、先生の横で笑っている。羨ましい程可愛らしい。でも、朱梨は、月子の大好きな友達で。
(田村先生が悪いんだ)
 また、月子の思考がぐちゃぐちゃになり出した。岸川というパズルが出来上がっていたのに、最近壊れているのに気づいた。ピースがあちらこちらに散らばり、なかなか形が見えない。黄色ばかりのピースはなにを表しているのだろう。
(早く帰ろう)
 月子が靴を取り出した時だ。
「野乃原」
(いつまでもそこで談笑してればいいものを)
 月子は無視をして、靴を履く。
「野乃原、呼ばれたら返事はするものですよ」
 久しぶりに聞く、怒気を孕んだ田村の声に、月子も、
「はい、伺か?」
 と怒りをこめた声で振り返った。すると、驚いた田村の顔があった。
「い、いや、さようなら、と言おうとしたんだが。
私は何か君にしたのかね? 怒っているようだが……」
 月子の思考が、正常に動き出した。
(確かに、私、何でこんなに怒ってるんだろ)
 我に返って、月子はまじまじと田村を見た。互いに意味を計りかねて見つめ合う。
「まあ、思春期ってやつですかね」
 田村は笑って、その場をまとめた。そして、思い出したように、
「そうそう、一学期末、よく頑張ってましたね。前回の模試もよかったし、君には期待してるんですよ」
 田村は言って、ポンと月子の肩に手を置いた。
「!」
 月子は田村と田村の手を交互に見て、
「先生、熱、あるんじゃないですか?!」
 と叫んだ。田村はいぶかし気に月子を見て、
「はい? 私はありませんよ。君こそあるんじゃないか? 変だぞ?」
 と言うと、月子の額に手を当てようとした。
――瞬間。月子は思いっきり後ろに退がった。
「少し傷つきますよ、その反応は」
 苦笑した田村に、月子は、自分でも訳が解らないまま、謝罪をすると、塾を飛び出した。
(何? 何、今の)
 月子は自転車をこぎながら、田村が肩に手を置いたときのことを思い出していた。肩が熱い。あの時、塾のフロアが、急に広がって、二人だけになった気がした。そして、そのときの田村は、光を放っているように見えたのだ!
(私の頭は狂い出した)
 自分がおかしいのか田村がおかしいのか。間違いなく自分だろうと月子は思い、思ったものの、原因がやはり判らなかった。


 葡萄酒色の空には薄い三日月が浮いている。月は太陽に、太陽は月に、恋をしていると言ったのは誰だったか。永遠に叶わぬ恋。その月を見ていると、そんなことを思い起こさせた。月が泣いてる、と思ったのだ。
 その切なさを知ってる、と月子は思った。岸川の顔がぼやける。なぜ? 月子には判らない。
 相変わらず、数学の成績は安定していない。学校のテストはどの教科もいいのに。
 何かがおかしい。でもピースがまだ足りない。


 勉強は嫌いではない。むしろ新しいことを習うのは、どこかわくわくして好きだ。だが、近頃の月子はそう思えなくなっていた。塾では、中学分の授業がほぼ終了し、受験のための、いわゆるポイントまとめの授業が多くなってきたからかもしれない。面白いと思えなかった。それでも、学校や塾にいて、習っているときはいいほうだ。自宅に帰り、受験勉強をしようとすると、筆が止まる。とたんにやる気は失せて、涙が溢れてくるのだ。
(私、どうしちゃったの? スランプなの?)
 他の受験生は、今頃勉強しているに違いないと思うと、焦りばかりが月子を襲う。しかし、誰も助けてはくれない。自分しか、自分を救えないのである。
 仕方なしに、今日も月子は机へ向かう。やはり、捗らなかった。


 その日は塾のミニテストだった。どのくらい解けたかさえもよくわからないまま、階段を重い足取りで下りていると、またあの光景が目に入った。やはり、田村はどこか光を帯びていた。
(みんなにも光が見えるから、先生に群がるんだろうか? なんだか虫みたいね)
 心で皮肉を言いはするものの、目が田村ばかりを捕らえる。
(私はどうしたいと言うのだろう? まさか、あの中に入りたいの?)
 素直に好意を表している、少女たち。田村ファンクラブなるものか。馬鹿馬鹿しい、とはもう思えなかった。彼女たちは、理由は分からないにしろ、田村に何かを感じ、そばにいたがるのだ。
(でも、私はやっぱり嫌だ。あの中の一人になるのは嫌だ)
 やっと視線をそらすことができ、月子は、受付前の電話の受話器を取った。母に迎えに来てもらうよう、電話をしようと。この日に限って月子は携帯電話を今日は忘れたのだ。が。
(あれ、私の家の電話番号)
 何度か押してみようとするが、途中で分からなくなってしまう。相当重症だ。受験病、恐るべし、と思いながら、受付のお姉さんに番号を聞く。
 すると、突然頬の前に拳が突き出された。驚いて横を向くと、田村が笑っていた。
「自分の家の電話番号を忘れる人がいますかね?」
 月子は顔から火が出るほどに熱くなった。無視して、教えてもらった番号に電話をする。
「一人でうちに帰れますか?」
 子ども扱いの冗談に、月子はむっとして、
「迎えに来てもらうから平気です」
 と答えた。
「そのほうがいいですね。途中で事故にあったりしては大変です」
 まただ。このもやもやとした苛立ちはなんなのだろう。それは。
(先生が心配してるのは、私の脳みそのみだ、きっと!)
 そう、なんとなく分かってきてはいた。田村がやたらと月子にかまうこと。そして、それは月子の成績がいいからなのだ、と。
「脳みそだけは死守しますよ」
 冷ややかに月子は答えると、塾を出て、その表で車を待った。とたんに、蒸すような暑さが、月子を襲う。汗がじんわりと噴き出してきた。塾の涼しいフロアで待つほうが得策であることは判っていた。
(でも、あの光景を見るのはもっと嫌!)
 月子は油蝉の鳴く声が、四方八方から聞こえてくる中、暑さで自分の脳みそも溶けてしまえばいいと思った。


 夏の月は優しく見える。それは月の周りに見事なグラデーションが、できるからだ。黄色、緑、青、群青。月が膨張して見える。でもそれはある意味曖昧な印象も受けた。


 それからも、田村とそのとりまきを見ると、なんだか胸の中がもやもやして、自分がコントロールできなくなることに、月子はさらにイライラしていた。どうでもいいことだ。なのに、なぜこんなに苛つくのだろう。苦しいのだろう。月子は、その光景を見ないようにするがために、夏の間、家で捗らない勉強を、外が暗くなるまで塾でやって帰ることにした。


      2に続く……


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天音です。

月に恋した2をお送りいたします。
こちらの小説はサイトにあるものを移しているものなので、一度読まれた方は、内容が変わっていませんので、ご了承ください。



ココから小説





 九月になった。まだ暑さは真夏並みである。ただ、蝉の声がつくつくぼうしのものに変わった。
 学校が始まり、また、一日のほとんどを、学校と塾に支配される日々が戻ってきた。
 そんなある日、塾で英語の質問をしていると、ほとんどの生徒が帰ってしまい、先生の去った教室は寂しいだけの空間になっていた。月子は不思議な気分になりながら、テキストをカバンへ詰めこんで、教室の電気を消そうとした。が、その手を止めた。スイッチの横に貼ってあったのは時間割と、その担当者名だった。田村の名ももちろんある。そこで、月子はふと思った。田村の名前は?
 自分のことをフルネームで紹介する先生が多かったが、田村は言わなかった。
(先生の名前……)
 なぜか無性に気になって、月子は電気の消された他の教室にも、載ってないか探した。
(どこにも、ない)
 がっかりしながら階段を下りていると、
「おや、随分遅くまで残っていたんですね」
 職員室から、偶然、当の田村が出て来た。
「英語の質問をしていたんです」
「熱心ですね。数学もそれだけやってほしいですね」
 田村は何も知らずに笑っている。
(この人は、なぜ光って見えるのだろう。自分にとって田村は一体どんな存在なのだろう)
 田村を見ると、疑問符で月子の頭はいっぱいになる。でも今は一つ。
「先生。先生の名前は、何て言うんですか?」
「また君は突拍子もなく。
私は秘密主義なんです」
 と田村は笑った。月子はその顔を見て、我に返った。馬鹿馬鹿しい。自分は何をしているんだろう。聞いてどうするつもりだったのか。そう思い、月子は自分の不可解な行動を後悔した。
「そうですか」
 月子は力なく言うと、靴に足を突っ込んだ。そして、さよなら、と言おうとした。
 田村は少し不思議そうな顔をして、一度口をつぐんだ。しかし。
「秋の夜ですよ」
 頭上からの声。月子は、訳が解らず、田村を仰いだ。
「秋の夜と書いて、あきやと言います。のんべいの父がつけた名前です」
「秋の夜……! 読書、そして」
 月子の脳裏には、煌々と輝く秋の月があった。
「君と同じ、月、ですね」
 月子の言葉の続きを田村は言った。
「のんべい……。李白」
 熱にうかされたように、月子が紡いだ言葉に、田村は、
「ああ、そうだったのかもしれませんね。父が李白ですかー、考えもしませんでした」
 と言い、新しい発見に楽し気であった。一方月子は。
(分かる。李白が水面の月をとろうとした気持ち)
 古文のプリントが頭に浮かぶ。動詞プラス「てしがな」で、願望。得てしがな。
月子はぼんやり思った。月を得てしがな。

 月は。欠けていたピースがはまる。黄色の多いパズルは完成した。
(私の月は)
 光を放つ秋の月が目前にいた。
(そうだったんだ。私は月に恋をしてしまったんだ)
「野乃原?」
 月が月に恋を。どちらにしても叶わないことには変わりない。
「秋の月は、一年の中でもっとも美しいですよね。色は淡いけれど、くっきりとした輪郭。高くから、地上を照らす。その光はとても儚いようで、強い。私も、自分の名前に月があるので、太陽より、月派なんですよ?」
 月子の口は止まることなく開くが、心はしぼんでいた。苦しいと思った。月子は悟った。田村に恋をしていたから、こんなにイライラして、苦しかったのだと。
「そうですか。私も、月が好きなんですよ。幼い頃の夢は宇宙飛行士だったんです。結局は叶わず、三番目の夢の教師に納まりましたがね」
「そうなんですか……。先生にもそんなときがあったんですね」
「こらっ、失礼だな、君は!」
 いつもより、多くの会話。それは月子を嬉しくもさせたが、苦しさは消えなかった。
(先生が夢を持っていた頃に出会いたかったです)
 月子は田村との年の差を憾んだ。そして、以前、他の先生の口から出てきた、田村の「しっかりした奥さん」とやらを羨んだ。
「もう、こんな時間。帰ります」
 苦しさに、思わず月子の口から出た言葉に、何も知らない田村は、
「そうですね。迎えはきとるんか? 気をつけて帰りなさいよ」
 と笑って言うと、職員室へ消えた。
 塾を出ると、母が待っていた。
「遅いわよ! 早く乗って」
 母の言葉に促されるままに、月子は車に乗った。

 空には、まだ夏の月。
 月子は少しほっとした。


 好きになるとブレーキは効かないようだ。月子はそれを思い知った。田村に妻がいようが、諦めがつかなかったのだ。ただ、二人の仲を裂こうとまでは思わなかったけれど。
(それをするには、私は若すぎるし、何より先生が不幸になる)
 結局は、あのとりまきと同じなのかと月子は思い、嘆息した。
(いや、あの娘たちは、憧れ。私は本気。本気? だと思うんだけどな)
 あまりの年の差に、時々月子自身、おかしいのではと思うこともある。
 月子にとってこの恋は、今までの恋とは異なっていることは事実だ。月子は、今まで好きになった男子の特徴を覚えていない。それぞれ違ったタイプだったからであろう。しかし、今回の恋で、月子の好きなタイプは「田村」と限定された。具体的に言えば、外見は、眼鏡の似合う少し色白のややほっそりした人。性格は、一見クールで皮肉屋、だが本当は優しく、自分に自信があるのに謙虚である人。田村を好きになってから、そういう人に目が行く自分を月子は止められなかった。それは、今後、田村を「好き」ではなくなっても続くことになる。それに。
(前ぶれがなさすぎる)
 田村は、なんだかよく分からないままに、月子の心の大事な場所に居たのだ。未だになぜか分からない。月子にとって、初めてなことばかりだ。
 今、月子の月――田村は、照らす存在というより、視界いっぱいに広がって、目も眩むような存在だった。
 受験期に田村を好きになったことは、月子にとってよかったかと言えば、答えは一つではない。田村を喜ばせたい一心で修英館高校に受かろうと思い、勉強を頑張ったということではいい面に働いたが、田村の些細な言動で、月子の心は揺れ、それに伴って成績も揺れることとなった。そして、月子を悩ませたのは、自分が素直になれない点だった。好きになってからというもの、それまで以上に田村に対して素直になれず、暴言ばかりを吐くという問題児になってしまったのだ。だが、当の田村はあまり気にしてはいない様子であった。
(大人だからか。それとも私の成績を下げないためか)
 月子にとってそれは重要だった。月子は、成績でなく、自分自身を見て欲しかったのである。


 九月も半ばになったが、相変わらず、気だるくなるような暑さが残っている。これは果たして、温度のせいか、他の熱のせいか。
(ああ、私、自分がこんなにおバカだとは思ってなかった。先生にマジになるなんて。先生はみんなの先生なのに)
 もう限界が近い、と月子は思った。毎日見せつけられる光景。それを横目に見る月子の目は、どこまでも暗い。あの輪の中に入ればすむことだろうにそれができない。月子自身がそれを許せない。それが悲しい。
(恋ってこんなものだったかな?もっとうきうきして、ドキドキして)
 暑さは残るのに、月は秋の月に変わっていた。車窓からそれを仰いで、月子はその遠さ、神々しさに、一人涙を流した。

 月子の一日は、今や田村に左右されるようになっていた。授業をうけながら月子は思う。なぜ田村は数学の先生なのだろう。なぜ自分は数学が不得意なんだろう。
「こんなところで間違う奴は、点いらんと言ってるようなもんぞ」
 田村が言う度に、月子の胸は軋む。全て月子に言われている気がする。返された回答用紙を直視することができない。
 この頃は涙線が弱くなったらしく、涙がすぐにたまる。月子はそれを流さないようにするのに必死だった。そんなとき、塾の狭い教室がとても広くなったような感じがして、そこに一人、月子だけがとり残されたような気分になる。月子以外の生徒は皆、解っている気がして。
(嫌。追いていかないで)
「野乃原」
 恋しい人の冷たい声に、月子が条件反射的に視線を上げると、涙が頬を伝った。田村の瞳が一瞬揺れた。
「……。顔を洗って来なさい」
「は、はい」
 その後、気分が悪いということにして、月子は一時間、初めて授業をサボった。
(こうしている間にも、私は遅れていくんだ)
 何の解決にもならないことは分かっていた。月子は自分の馬鹿さ加減に悔やしくて、悲しくて、涙が止まらなかった。そして、田村が自分を見放すことを何よりも恐れた。成績が悪い月子になんか価値はないのだから。
 その日、階段を力なく下りている月子に田村が声をかけてきた。嬉しい、そして苦しい。でも、まだ田村は自分を見捨ててはいない、と思って少しほっとした月子だった。
「今日は……どうした? 調子悪いのか?」
 月子は正直に答えるべきか迷った。
「……私だけ、解っていない気がして、恐くなったんです」
 すると、田村は、少し笑って、
「君らしい。心配しすぎです。皆、分かっている訳ではありませんよ。そして、皆、不安です」
 と言った。
「皆、不安……」
「そうです。
全く、君は何のために先生がいるのか分かっていないようですね。そういうときこそ、質問をしなさい。補習をしてもいいんぞ。今から受けるか」
 月子の心は少し軽くなった。
「今日は、遠慮します。でも、次からは質問することにします」
 月子はいつのまにか笑っている自分に驚いた。
「そうか。ま、頑張りなさいよ」
 田村に言われると頷くしかないではないか。
「はい。今日はすみませんでした。さようなら」

 今日も秋の月は平等に光を降り注いでいた。
(そう、みんなに優しいんだよね、先生は。成績とか男女とか関係ないんだ。私はなんて馬鹿げたことを考えていたんだろう。先生は先生なんだから)
 でも。だから、届かない。いくら勉強しても、可愛くなっても。分かっている。先生にとっては、生徒は皆同じなのだ。それでも不安が消えないのは、月子が恋をしているから。  
 一生徒の一方的な恋。
(それは、嫌われないのと同時に、特別にはなれないということ)
 月子は分かっていながらも、夜の空に手をのばした。指のすき間から、優しい光が見えて、切なさが増した。得てしがな……。





 空が透き通り、青く高くなってきた。秋である。
「月子!」
 教室の自分の席で、窓からぼんやりと空を見ていた月子に声をかけてきたのは、高井奈々美だった。
「月子って本当に空見るの好きだよね」
「まあね」
 実際そうなのだが、逃避しているというのもある。月子は学校大好き、というタイプではない。教室は騒がしく、絵の具をごちゃまぜにぶちまけたような印象をうけるからだ。むしろ統一感のある塾の方が好きであった。
「月子ちゃん、はい、これ」
 豊田ゆりもやってきて、手紙を渡してきた。
 手紙交換。学校での唯一の楽しみだ。中学生女子の手紙の内容といえば、やはり恋につきる。読んでいると、なんだか可愛いくて、月子も楽しくなる。月子は自分が田村を前にすると素直になれないから、ゆりが羨ましいのかもしれない。
「月子の好きな田村先生にも会ってみたいなぁ」
 学校には、田村のとりまきがいる訳でもないので、月子も、恋する一少女になれる。
「ななしゃん、うちの塾、入ればいいじゃん。頭いーんだし、もったいないよ。そしたら田村センセも見れるし。光を放ってるのも分かるって」
 つい、熱く語ってしまう月子に、奈々美もゆりも笑っている。
「でたでた、光発言! ほんと月子ちゃんて、おもしろいよね」
 ゆりの言葉に、月子は頬をふくらませる。
「だってほんとに光が見えるんだもん! 人と違うオーラが……」
 一生懸命になって説明する月子に、二人は笑っている。
「もういいっ」
「あ、でも塾の件、私、考えてみるよ。丁度探してたし」
「本当? ななしゃんが一緒なら、ますます楽しくなりそう!」
 そう言いながら、一方で、田村の興味が奈々美に注がれるのではという不安が一瞬よぎり、そんな自分を嫌だなと月子は思った。
「私ももう一つ、用があったんだった。いつも悪いんだけど、これ」
 ゆりが差し出したプリントを月子は受けとり、
「いえいえ、これでまたセンセに質問する口実ができました」
 と笑った。ゆりは違う塾に通っていて、そこで分からなかったプリントを持ってくる。まず月子が考え、それでも分からなかったときには田村に質問するのが、最近の習慣である。
 というのも。
 月子は、塾に行くと、入り口の先生方に挨拶をし、職員室に入って行く。そして、田村に、「ここ、分からないんです」と告げると、教室に行く。後ろから、田村の、
「はい、教室入りなさいよー」
 という声が追ってくる。そして、月子が席に着くころ、田村がやってきて、教室の入りロで月子を手招きをするのだ。月子はその瞬間がたまらなく好きだ。
「ここだが」
 もちろん田村にかかれば、難問もすぐに解けてしまい、時間にしてはほんの少しの間なのだ。けれど、月子は、そのときだけは田村を一人占めしている気分になれるのである。
「よく分かりました」
「熱心なことはいいことです。じゃあ授業があるから」
「ありがとうございました!」
 思わず笑んでしまう。田村と話せて、問題も解けて、一石二鳥だ。そう、この時間は、月子は純粋に好きだった。だが。
 一日の授業の終わり。
 月子は分からなかったところは、その日に解決したいので、質問をしに職員室に入る。そして質問するのだが、月子は、期待と不安でドキドキしている。そのとき、ほぼ七割の確率で田村が声をかけてくるからだ。
「野乃原。ちょっと。このプリントだが……」
 田村から声をかけてもらえるのは嬉しい。だが問題はここからなのである。
「この問題の解き方! 君はセンスがあるなと思ったよ」
と田村がボールペンで月子の頭をぐりぐりとするとき、月子は本当に嬉しくて、
「えへへ」
と言いながら本当の笑顔になる。
 しかし。
「君はこの問題、なんで解けんかね。初歩ぞ」
と冷めた口調で言われたとき、月子は、胸が押しつぶされそうになり、泣くのを堪えるために、笑んでしまう。心は悲しみに染まっているのに。
 すると田村はますます怒る。
「君は、真面目に私の話を聞いているのかね」
 心はズタズタになり、でも顔からは笑みが消えない。
「君は!」
「すいません。すいません」
 こんなとき、月子はどうしていいか分からず、ひたすら謝るしかない。
(先生、ごめんなさい。馬鹿でごめんなさい。本当は反省しているんです)
 後者だった場合、その日の月子の夢にまで田村は現れる。
「君のように、たるんだ生徒がいると、周りにも伝染するんだよ。自覚を持ちたまえ」
 夢の田村も、現実とそっくりな冷たい目をして冷たい声で、月子の胸をえぐる。夢の月子は耐えられず、涙を流す。
 そして、その冷たさに、月子は目を覚ます。枕が濡れていて、まだ朝になっていない闇の中で、また月子は声を殺して泣く。
(先生、私を見捨てないで。嫌わないで。冷たくしないで。私、もっと頑張るから。お願い!)

 最近、夢には月ではなく田村しか出てこなくなった。そしてそのほとんどが、悲しい夢である。月子の枕は乾く暇がない。
(夢でさへ 現と変はらぬ つれなさに 冷めても残る 胸の傷かな。……だめだ。苦しい。平安時代の華やかなお姫さまたちも、枕を濡らす恋をしていたのかな)

 だが一度だけ、月子は妙な夢を見て、一人悩んでいた。友達に言いたいのだが、軽蔑されそうで、怖いかった。しかし。
「月子ちゃん、最近田村先生の話、しないけど、どうかしたの?」 
 教室を移動しているときに、ゆりが話しかけてきた。月子はドキリとした。
「月子ちゃん?」
 月子は自分の頬が熱くなるのを感じた。言うべきか。言わざるべきか。
「あ、あのさっ。とよちゃんは、変な夢とかって見たことある?」
 月子は意を決して言った。ゆりは、首をかしげ、
「変なって、どんな?」
 と聞いてくる。口に出したことを後悔しても、もう後に引けなくなった月子である。
「あの、ね。内緒だよ」
 月子はそう言ってゆりの耳元に口を寄せた。
「キスされる夢とか見たことある?」
 瞬間、今度はゆりが顔を赤くした。
「見たの!?」
「しぃー!
頬に、だけど」
 月子は小さく言って俯いた。
 正直、自分でも訳が分からないのだ。こんな夢、初めてだった。第一、そんなこと、考えたこともないのだ。だから余計に困惑していた。
「私、考えたこともないんだよ。だから、びっくりしちゃって。もしかして、心の奥底で思ってるんだったらどうしようって」
 ゆりは少し黙って考えているようだった。
「……好きなら、そう思ってもおかしくはないんじゃないかな」
 ゆりがポツンと呟いた。
「そうかな。なんか、こんな自分、恥ずかしくて。内緒ね、絶対!」
 懸命に言う月子に、ゆりは少し笑って、
「約束する。私も見るかもしれないし、そのときは月子ちゃんに話しちゃうかも」
 と言ったのだった。
 そんな夢は一度だけで、相変わらず悲しい夢が続いている。
 いつのまにか九月も終わろうとしていた。

 空には清い秋の月。地上には月明かりにうかぶ金色のすすき。物悲しく響く鈴虫の声。うさぎが餅つきをしていてもおかしくないような、幻想的な夜。でもそれは田村を思い起こさせるだけで、月子には、眩しく、痛い世界だ。









 十月。花より実がなる、秋まっ盛り。奈々美が塾へ入って来た。
「君が野乃原の学校の子? 野乃原はおもしろい子なんだが、なぜか私にだけ冷たくてね。学校での野乃原はどんな子なの?」
 フロアで楽しげに聞いてくる田村に、奈々美はどう答えていいか分からない顔をして笑っている。
「別に先生だけに冷たくしてる覚えはありません! もう! ななしゃんに変なこときかないでください!」
 なんだか自分の想いを見透かされている気がして、あわてて、奈々美を教室へひっぱる月子であった。そのとき、奈々美が笑って月子に耳うちした。
「声、高くなってたよ、月子。分かり易い」
「そ、そんなことないもん」
 周りにも本当は悟られているのだろうか、と、月子は少し不安になった。

 「弱点特訓をとり入れることになった。五教科のうち、どの教科にするか、書いて出すように」
 授業後、田村が言った。月子は迷っていた。数学か、社会か。数学は相変わらずで、社会は最近点が落ちていた。
「ななしゃんは、何にした?」
「私は国語」
「そっか。前から苦手って言ってたもんね」
 数学にすれば、田村に会える時間が増える。同時に、胸の痛みも増す。一方、社会の山田とは、ツーカーの仲だ。
(今回は楽しく成績を上げる方にしよう)
 月子は紙に「社会」と書いた。

「おや、野乃原は数学じゃないんですか?」
 フロアで早速田村につかまった。
「社会も、落ちてるんで、今回は社会で」
 力んで月子が答えると、田村は不思議そうに、
「そうですか。ま、質問はしなさいよ」
 と言って、職員室へ消えた。
「月子、これでいいの?」
 奈々美が心配そうにきいてくる。その奈々美に、
「これ以上、センセと会う回数増えたら、私の心臓はもたない。社会でよし」
 と、少し強がって月子は答えた。
 もうふりまわされるのは苦しい。補習一つで変わるものではないことは十分承知だったが、月子は「社会」にこだわった。逆にそれで田村の気を引きたかったのかもしれない。無駄なことだ。だが恋する少女は、時として間違った方行に暴走するものなのだ。多分。
(素直になれないって、損だよなあ)
 月子は未だに、田村の回りにいる女子にはなれないし、田村が言ったように、田村に冷たくあたってしまう。嫌われるようなことを自分からしてしまうのだ。でも、それを月子は直せない。これでは小学生の男子みたいだ、と月子は内心苦笑し、重いため息をついた。


九 


 秋の空は本当に綺麗である。木々の葉も、色付き始めた。
 月子はほんのり赤く染まった紅葉を空に透かして見る。きらきら。紅葉が光る。その朱と空の青の対比がまた美しい。月子はため息をつくと、その紅葉を放った。空に赤い放物線が描かれた。

 最近は、朝晩の空気が澄み、冷えるようになってきた。受験生の顔つきも、その空気のように、しまってきている。その顔を見て、月子は焦っていた。焦るのに、スランプから抜けだせない。相変わらず、机については涙を流す日々が続いている。
(どうしてなの? 今まで、勉強だけは普通にできる唯一のものだったのに)
 そして、その結果は、目に見えるものとして現れた。月子は、クラス発表の紙の前で、ただ、呆然と自分の名前を見つめた。
 クラスが、落ちていた。初めてのことだった。
(ああ、もう私は……)
「月子……」
 声をかけてくる、奈々美とも、大きな壁ができたように月子は感じた。
(担任も田村先生じゃなくなるんだ……。数学は先生のままだけど。でも、もう恋に現をぬかしてる場合じゃないよね。ホントなんて間の悪い)
 月子は、昔から要領の悪い子供で、よく母にしかられていた。
(そんな子が二兎を得られるわけないじゃん)
 クラスが下がっても、授業はちゃんと受けなくては、と思うのに、どこかぼんやりしてしまっている自分を、月子はどうすることもできなかった。落ちこんでいる暇はないというのにと思う。でも、頭で解っても、心はどうすることもできなかった。
「野乃原、帰り際、職員室に来なさい」
 田村の声が月子には遠くから聞こえた気がした。

「野乃原」
 田村の声が遠い。月子は、どこか客観的に、職員室で、田村の前に俯き、たたずむ自分を見ていた。
「呼ばれたら返事はしなさい、と言ったことがあったね」
 月子は怒られると思っていたが、田村の声は優しかった。
「なんて顔をしている。この世の終わりみたいだぞ」
 実際にそんな気がしているのだから、仕方ないと月子は思った。だから声が出なかった。田村はため息をついた。
「私は、原因のない結果はないと思っているんですよ。今回のこと、君は、原因に心あたりがあるんじゃないか?」
 そう。なるべくしてなったことだ。月子は頷いた。
「君は、以前、綱渡りをしているようだと言っていたね。今回は、いつもと違う方に落ちてしまったという訳だ。でも、そもそも、綱渡りは何のためにしているんですか?」
 月子は少し顔を上げた。
(何のため? それは、ゴールまで渡るため。ゴールは)
「受験で受かるためのものではないんですか? いや、もっと先のこと……。
君は高校で、何かしたくて受けるんじゃないのか?部活とか」
(私の目的。なぜ高校を選び、受けるの?)
 月子は心で自問して、愕然とした。目的……。母に褒められたいから。田村を喜こばせたいから。
(あれ?)
「目的はないのか、野乃原?」
 田村の何気ない質問。月子は。答えることができなかった。
(私、ちゃんとした目的が、ない! 何のための勉強? 純粋に楽しかった。でも今後はそれだけじゃ続かない! 目的、目的! 私、何も考えていない。自分が、ない!)
「野乃は」
 月子の様子に気付いたのか、田村は月子の名前を呼ぼうとした。その瞬間。
「判らない。もう何も判らない!
どうせ、先生は、仕事でやってるんだもん。そりゃ、励ましたりしますよね!」
 もう、八つ当たりでしかなかった。月子の瞳には、傷ついた顔の田村が映っていた。田村だけでなく、職員室中がしんとしていた。
「確かにそうかもしれません。でも、今頃人間不信は悲しいですよ。みんな一生懸命やってるんです」
(分かってる! 先生たちは悪くない! 私は本当に……)
 月子は逃げるように、職員室を出た。先生方の、特に、田村の傷ついた目が頭から離れず、月子を責めた。涙が止まらない。
(私、救いようのない人間だよ!)

 その日、月子は、月を仰ぐこともなかった。先生方に会わす顔がないと思った。次の塾の日、どうすればいいのだろう。それだけが月子の頭の中でぐるぐる回っていた。


 その夜、月子は夢を見た。

 月子は、川原で山積みのプリントを必死でやっていた。ところが、プリントが川に次々に流れていってしまうのだ。まだやっていないというのに。
(待って。まだできてないの)
 でも、今しているプリントを止める訳にもいかない。月子は、とにかくやるしかなかった。やるしか。

 朝、目が覚め、月子は、なんとなく判るものがあった。
(あれは、現状だ。目的? 人のためでもいいじゃない。自分の目的は、高校に入ってから探しても遅くはないよ。とにかく、教師になるには大学まで行かないと。そのためには、もう迷ってる暇はないんだ。迷ってたら川に流されるプリントが増えるだけ。先生方には、まず、謝罪。そして自分のできる限りを今はやるしかない)

 月子の瞳に、強い決意の光が宿っていた。

 塾に着き、早々、月子は先生方、一人ひとりに謝まって回った。さすがに、先生方は大人で、「気にしてないよ」と言ってはくれていたが、先生方も人間である。傷ついていないはずはないのだから、月子は、今後このようなことは決してすまいと心に誓った。後は田村だけだ。田村は丁度職員室を出ていくところだった。
「先生! 田村先生!」
 田村はいつものように笑顔でふり返った。
「おや野乃原。早いですね。どうかしたんですか?」
(え?)
 田村のこの反応に、月子は困惑してしまった。田村のことだから怒ってるはずはない。
(多分)
「あの、こないだは、失礼なことを言って、本当に申し訳ございませんでした」
 月子は言って、深々と頭を下げた。
「何のことですかね。最近もの忘れが多くて……。
そう言えば、言い忘れていたことがありました。今回のクラス変えは、君にとって、辛い経験になったでしょうが、経験は財産です。いつかきっと役にたちますよ。それに、今回落ちても受験本番で受かればいいんです。私は、君は次のクラス変えで、上がってくると信じていますしね。なんせ君は負けず嫌いだから」
 月子は田村の言葉に、泣き笑いを浮かべた。
(ありがとう。ありがとうございます、先生)
「ええ、絶対このままでは終わりません! 頑張ります」
 月子はもう一度頭を下げると、軽い足取りで階段を上がって、教室に入った。知らない顔ぶれ。みんなそれぞれ自主勉強をしていた。月子も、負けるものか、とテキストを開いた。いつのまにか無心になって勉強していた。

 「一生徒」――毎日心で繰り返す呪文。

 月子の恋の嵐は消えはしない。だが、どうにか自分を保つように月子はしていた。それでも、プリントに書きこまれた、「Good」や「精神が強ければ点も強くなる」といった田村からのメッセージは、月子の心を浮上させ、励みになった。

 毎日は平坦ではなく、やる気にもムラがあったが、以前田村が言った「学ぶ姿勢」とやらを学んでいるのだ、無駄ではない、と自分に言い聞かせ、月子は頑張った。
 だが、この頃から月子はよく風邪をひくようになっていた。心身のストレスが原因だろう。教室で、コホンコホンと響く自分の咳の音に、回りが迷惑しているのではと思うと、塾を休む日もでてきた。しかし、そんな月子にも先生方は優しく、遅れた分を取り戻すための個人授業をしてくれたのだった。それは田村も例外ではなかった。

 田村と、額がくっつきそうな程、近い距離で授業を受けるのは、ある意味地獄だった。
(心臓、落ちつけ! 先生に聞こえたらどうするの)
 月子は心で自分を悟したが、効果はなかった。紅葉のように顔が赤くなっているだろうことが分かる。手には汗がにじむ。プリントがふやけるのを田村に悟られないよう隠す。本当に地獄。でも、とても幸せなひと時だった。強く怒られることもなかったし、逆に、よく褒められたせいもある。
「最近頑張っているようだね。いいことです」
 説明が終わった後、教室を出る際に田村に言われた言葉に、月子は本当に嬉しくなって微笑んだ。その瞬間は粉れもなく、恋する一少女の顔になっていた。
(でも、勘違いをしてはいけない)
 月子は一少女であって、特別な少女ではないのだ。



 黄色い秋の蝶は、舞うのをやめてしまって、代わりに、黄色い絨毯を作った。昼も気温が上がらなくなってきた十一月。

 月子は、再びクラス編成発表の紙の前にたたずんでいた。
「よく頑張りましたね」
 田村の声がして、肩をポンと叩かれた。その熱さに、月子は夢を見ているのではと逆に思った。月子のクラスは上がっていて、それだけでなく、特待生になっていた。学費が半額になる。
「親孝行者ですね」
 田村の声は遠く、月子は落ちたときと同じように放心していた。ただ、思った。
(これが結果だというのなら、私は今後も頑張り続けよう)
 しかし現実はそれ程甘くはない。
(盛者必衰の理あり。まさにその通り)
 いつの時代も頂点に立ち続けるというのは難しいものだ。
 月子の場合、一位ではなかったので、頂点と言えるかは定かでないが、どうやら、あの模試の結果が、月子の頂きだったようだ。再び月子の成績はじりじり下がり出した。勉強をしていない訳ではない。回りが勉強をしている、というのと、月子の「テスト恐怖症」が加速したからである。そして、さらに、「特待生」というプレッシャーが月子の肩にのしかかった。
(私は特待生。だから成績を下げたら、他の皆にも示しがつかないし、塾に悪い)
 以前にも増して、テスト前の月子は不安定になっていった。少しのことで、イライラしたり、不安になったり。前日ともなると、それは他人の目からも明白なほど、月子の様子は変貌した。顔は青ざめ、目は虚ろで、カバンを持つ冷えた手は、微かに震えている。そんな月子を奈々美は心配したが、その状態のとき、月子はかたくなで、奈々美の助言や、励ましを聞く耳さえもたなかった。もちろん田村もそんな月子を心配し、テスト前日には必ず声をかけるのだった。
「野乃原。何も考える必要はないんですよ。明日は、自分の力を等身大出せばいいだけです。君ならできますよ。今日は早く寝なさいね」
 奈々美には失礼だが、田村の声は、ほんの少し、月子の心に届く。月子は小さく頷くと、おぼつかない足どりで塾を出るのだった。

 そして、テスト当日。

(テスト。結果が数字になって追ってくるもの。もうこれ以上順位は下げたくない。頑張らなくちゃ)
 何度もその言葉が月子の脳をぐちゃぐちゃにする。早めに席につき、勉強道具をとりだして、少しでも目を通そうとするのだが、テキストの文字は、このとき、月子の中で不可解な記号となって去っていくだけだ。月子は勉強を諦めて、テキストをしまい、筆記用具だけを机上に置いて、とにかく落ちつこうと深呼吸を試みた。だが、呼吸は浅く、速まる一方である。身体は熱いのに、指先だけが異状に冷えて、机上で震えている。冷たいのに、汗が机をしめらせた。月子の頭がぐるぐる回りだしたところで、
「野乃原! 大丈夫かあ? リラックス、リラックス」
 社会の山田が肩を叩いてきた。月子を思って、ロを「い」にして笑って見せる。その気持ちが嬉しかった。山田だけではない。奈々美を含めた友達、そして先生方が次々に声をかけてくる。本当に自分は恵まれていると、月子は実感する。
(なのに、結果が出せないのは嫌だ)
 結局その思考に陥る。

 そんな月子に容赦なく、テストは始まった。

 結果は、やはり、やや落ちていた。フロアに貼り出された順位表を一度見ると、月子はうな垂れて、重い足を引きずるようにして階段を上がった。すると、
「野乃原」
 田村が走ってきた。その肩が上下している。
「結果は気にするな。今できることをやりなさい。なぜ間違ったのか。順位よりそちらの方が大事です。入試までに調子を上げていけばいい」
「……はい」
 田村の優さに涙がにじんだ。
「よし。じゃあ、授業があるので」
 田村は足早に去っていった。
(しっかりしないと。先生は、まだ私を信じてくれているのだから)

 車窓から見える月が冬の月に変わっていた。

 冬の月は、冷たく白い。その眩いばかりの白銀の光で、冬の夜空を支配する。最も圧倒的で、無表情な月。でもそこに宿る静けさは、ときに見ている人の心までをも静め、無にしてくれる。
(模試の時、私に冬の月が宿ればいいのに)
 月子は心からそう思った。


十一


 冬の天気は曇りが多く、灰色に染まった町は見ているだけでも憂鬱になる。木々はすっかり葉を落としてしまい、細い幹で木枯らしに耐えている。その姿は、寂しくも見えたが、強さも感じられた。雨ニモ負ケズ、風ニモ負ケズ。
(私も、頑張らなくちゃ)
 月子は気持ちだけでも前向きになろうと努カしていた。だが、それはとても不安定な状態で、前向きになろうと思っては沈む、の繰り返しだった。
 十二月に入ると、塾は、入試の予想問題を本番を思わせる雰囲気で行うことを始めた。毎週行われ、その結果でクラス編成がなされた。それは月子にとっては、まさに地獄だった。毎週月曜日が憂鬱で、学校が終わり、ゆりたちと下校をする足どりが自然と重くなった。そんな月子をゆりは心配していた。
「月子ちゃんの塾、大変そうだね。大丈夫?」
「辛いのはみんな同じだもん。受験までの辛抱だもん。がんばらなくちゃ」 
 ゆりの言葉に、無理矢理笑顔を作り、月子は答えた。
「そうだね」
 ゆりも神妙に頷いた。

 とりあえず、月子は、クラスを保持しきった。本当にとりあえずという感じだったが。月子は少し安堵はしたものの、まだ本番ではないから気は抜けないと思った。冬休みは三十日から年を越して三日までで、塾は四日から始まるということであった。その間、膨大な量の宿題を出された。とてもできる量ではないように見えた。

 「行ってらっしゃい」
 月子は家の門前で、父と母と弟を見送ることになった。野乃原家は、毎年父方の祖父母の家で年越をする。月子は、今年は受験勉強のため、一人、家に残ることになったのだ。
「風邪ひかないようにね」
「無理すんなよ」
「分かってるって」
「じゃあね」
 三人を乗せた車が遠くなっていくのを、月子はなんだか不思議な感じで見送った。門を閉めて、家のドアを開けると、ドアがいつもより大きく見えた。月子はそのドアを閉めると、しっかりと鍵をかけた。
(さあ、宿題が待ってるぞ)
 月子は早速机に向かった。最初は捗っていたと思う。何枚かのプリントを無心でやり終えたところで、ふと月子の手が止まった。月子はなんとなく自分の回りを見回した。静かだと思った。
(私の家、こんなに広かったっけ)
 いつも聞こえてくる、母の叱る声や、弟のドタバタと階段を上がってくる音がしな
いのはとても不自然だった。
(……やらなきゃ)
 月子は思い直してプリントを再びやり出す。だが、なんだか気が散る。月子は手を止めて、少し休憩することにした。
 一階に下りて、紅茶を入れる。そして、月子はいつも座ってる椅子に座った。一人で飲む紅茶は、熱いのに、冷えている感じがした。
「音がないって寂しいな」
 月子はわざと声に出して言った。
「バロック音楽はアルファー派が出て、勉強するときにいいって聞くよね」
 誰に言うでもなく、月子はそう言って、ビバルディの「四季」のCDを二階に持って上がった。そして月子は「四季」をかけ続けながら、プリントをやった。
 夜になると、広い家は不気味だった。九時を過ぎて、お風呂に入り、再び机に向かったが、なんとなく背後が気になって、見渡してしまう。月子は勉強を締めて、べッドに入った。 
「おやすみなさい」
 小さく呟いて、月子は布団を頭まですっぽりかぶった。だがなかなか寝つけなかった。
(みんな、今頃勉強しているんだろうか)
 そう思うと、遅れるのが怖くて、起き上がり、勉強をしようとする。だが、捗らないので、べッドへ戻る。その繰り返しで、結局あまり眠ることができずに朝を迎えた。

 一人で迎える大晦日。とにかく寂しいの一言につきた。宿題をする気も失せてしまって、月子はコンビニに年越そばとお菓子を買いに行って、一階のテレビの前に座った。
 パチンという音の後からは、静けさをかき消すような音と映像の洪水。
 月子はひどく安心した。お菓子をロに押し込み、テレビを見ながらプリントをする。寂しさをまぎらわすためにしたことだったが、当然の如く、月子の目は、テレビに向けられたまま止まる時間が増えた。その度に、宿題! と思い直し、視線をプリントに落とすのだが、テレビの続きが気になってしまい、また手が止まってしまう。そのうち、横に残っているプリントの山を見て、誰も全部はやってこないだろうと思い、ますます月子の手は止まり勝ちになったのだった。
(だって、こんなの絶対無理だよ。どうせ罰の正座すればいいんだ)
 いつのまにか、悪い方に開き直ってしまった、月子であった。結局月子は「紅白」を見ながら、そばを食べ、「行く年来る年」までしっかり見て、ベッドに入ったのだった。

 元旦。月子が目を覚まし、時計を見ると、時計の針は十一時を回っていた。それでも寝たりないような感覚で、月子は目をこすりながら、パジャマのまま一階に降りた。
 まず祖父母の家に電話をしようと受話器をとり、年明けの挨拶をした。
「勉強は捗ってるの?」
 母の問いに、ようやく現実に戻された月子であった。
「……ぼちぼち」
 答える声は自然と自信のないものになっていた。
「そう。そのために家に残ったんだから、頑張りなさいよ」
 そう言われ、全くその通りだと月子は頷くしかなかった。受話器を置いて、昨夜、紅白を見ながらやっていたプリントに視線をやる。まだ六分の一しか終わっていなかった。量が多いほどやる気は失せていく。やらなくては終わらないことは十分承知だが、月子はプリントから目をそらして、朝食をとることにした。母が作り置きしてくれた食事をすますと、月子は恒例の「ポスト見」をすることにした。毎年年賀状が誰から来ているかワクワクしながらポストを覗くのだ。月子は束ねられた年賀状を、早速部屋で分けだした。
(ない。ない。ない……)
 今年はさすがに受験生のため、月子自身も書かなかったように、月子の友達からも年賀状は来ていなかった。ピアノの先生など、一部の人からの数枚の年賀状を見て、月子はため息をついた。
(なんだか寂しいな)
 月子は思う。来年からは高校生だ。中学の友達から何枚年賀状が来るだろう。来なくなるか、または年賀状だけの仲になるか……。そう考えて月子はますます寂しくなった。
(きっとそんなことないよね。そんなこと)
 月子は少しの間リビングでぼんやりたたずんでいた。と、そのとき、携帯電話が月子の目に入った。手にとって見ると、何通ものメールが来ていた。奈々美を含む友達たちからだった。内容は「明けましておめでとう。お互い勉強頑張ろうね」というのがほとんどであった。返事を送ろうとして、そのメールが届いた時刻を何気なく見ると、今日の午前二時、三時などであった。
(っ!)
 自分が寝ている間にも、彼女たちは勉強をしていたのだ。月子は動揺した。
(私、間違いなく遅れてる)
 あわてて月子はプリントをやりだした。だが、焦りが気を散らさせる。
(だめ。やらないと。早く。早く!)
 結局、月子はプリントを終わらせることができぬまま、冬休みを終えた。


 年が変わってからの塾初日。月子はかなり不安だった。入り口では先生方が元気よく、「明けましておめでとうー!」
 と生徒たちに声をかけている。それに小さく返して、逃げるように階段を上がった。そして、教室に入るなり、月子は友人たちに声をかけた。
「プリント終わったー? ありえないよねーあの量! 私、終わらなかったよー」
 内心の不安を隠して、おどけながら言うと、友人たちは一瞬「え?」という顔をした。
「あー、私は終わらせたよ、なんとか」
「野乃原、勇気あるね」
 今度は、月子が「え?」という顔をする番だった。みんなしっかりやってきていたのだ。結局、やってこなかったのは、クラスで月子一人だけだった。月子は自己嫌悪でいっぱいになった。
(私、何やってるんだろう。みんな頑張ってるときに)
 その日の授業の間中、月子の足は震えが止まらなかった。
「野乃原。職員室に来なさい」
 授業後、田村がそう言った。
 月子は重い足取りで階段を降り、一階の職員室のドアを開けた。そして、田村の前に立った。
「どうしました、野乃原。正月、具合でも悪かったのか?」
 田村は心配しているようだった。月子は両の拳を強く握って、俯いた。
「……」
「野乃原?」
「た、体調は悪く、なかった、です。
私の怠惰、でした。私が甘かった。みんな、やってくるとは思わなかったんです」
 いつの間にか月子の目には涙がうかんでいた。
「……顔を上げなさい」
 田村の声は冷たくなった。
「君を見損ないましたよ。
今日、この後自習室でやって帰りなさい。だれた雰囲気は伝染するものです」
 いつか夢で聞いた田村の言葉が、現実として冷たく響き、月子は涙を流したまま頷くと、自習室へ駆け込んだ。誰もいない自習室で、月子は泣きながら、ひたすらプリントをやった。田村の冷たい声が頭から消えない。
(私は、まだまだ受験生の自覚が足りていなかった。受験はもうすぐだというのに)
 涙がプリントを湿らせ、でこぼこにする。それでも月子はやり続けた。
「野乃原」
 幻聴がする。田村の声だ。
(気を散らせてはいけない。今はプリントに集中しないと)
「野乃原」
(幻聴じゃない!?)
 月子は慌てて後ろを振り返った。月子と目が合うと、田村は少し視線をそらした。
「もう遅い。帰りなさい」
 田村に言われて時計を見ると、十一時を回っていた。
「でも、あと少しなんです」
 月子が言うと、
「君に付き合って、遅くまで残ってくださっている先生方のことも考えなさい」
 と田村に言われ、月子ははっとした。
「そ、そうですよね。すみませんでした」
 また涙が出そうになるのを、月子は必死で抑えた。
「明日まで。明日までにやってきなさい。――もしできなかったら……」
 田村は今度は月子の目をしっかりと見つめた。
「君にはクラスを下がってもらう。なんでかは、分かるね?」
 月子は静かに頷いた。
「気をつけて帰りなさい」
「はい。明日までには必ずやってきます」
 月子は田村に一礼すると、塾を出た。
「遅くなる」と電話していたのだが、母はそれでも少し待っていたようだ。
「なんで月子だけこんなに遅いの?」
 母が不思議そうに訊いてくるのに、月子は、
「私が、悪いの」
 とだけ返して、黙った。その月子の様子に、母は何も言わずにハンドルを握ると、エンジンをかけた。
 家に着くなり、月子は二階の自室に駆け込むと、プリントを引っ張り出し、黙々とやりだした。
「月子、お風呂に入りなさいよ」
 一階から母が言う声が聞こえた。
「やることやってから!」
 言い返して、月子はまたプリントに視線を落とした。
 時計の針が一時を回ったころ、月子はやっとプリントを終えた。
「ふう」
 カバンにプリントを入れて、月子はお風呂に入った。温かいバスタブの中から、ゆずのバスソルトの香が漂ってきて、月子の鼻を刺激する。お湯につかっていると、このまま眠りたくなってしまう。いや、実際寝てしまいそうだ、と月子は思い、慌ててバスタブからあがった。

 ベッドに入ると、田村の冷たい目を思い出した。気がつくと、涙がつうと目尻から枕に伝っていた。
(頑張るから。見捨てないで、先生)
 月子は横に寝返りをうって、涙を拭うと目を閉じた。疲れていたせいか程なく眠りに落ちた。が、夢の中でさえ、田村は冷ややかな目で月子を見下ろしていて、月子を苦しませた。


 「月子ちゃん、顔色悪いよ?大丈夫?」
 月子が学校の教室に入るなり、ゆりが声をかけてきた。事情を知っている奈々美は黙って心配そうに月子を見ている。
「えーと。私が悪いんだ。
さぼっちゃったんだもん」
「? さぼる?」
 ゆりが月子の言葉に首をかしげる。
「うん。冬休みの宿題やらなかったから。だから田村先生に怒られちゃっただけ……」
 また田村の目を思い出して、月子は涙ぐんだ。
「月子ちゃん! 大丈夫だよ! これからやればいいよ! それに、田村先生は一時的に怒っただけだよ!」
 一生懸命に声を出して励ましてくれるゆりに、月子は少しだけ笑った。
「だといいんだけど。まあ、自業自得だから、しょうがないんだ。今日、塾で謝ってくるよ」
(許してもらえるかな)
 今日も空は冬の曇天。未来みたい、と月子は思った。先が見えない。

「これ、やってきました」
 塾に着くなり、月子は職員室に入って田村の前に立って言った。そして、深々と頭を下げ、
「すみませんでした!」
 と謝った。しかし、その後、田村がどんな顔をしているか不安で、顔を上げることができなかった。
「っ」
 呼吸ができないような、時間が止まったかのような長くて短い時間。
「野乃原。顔を上げなさい」
 月子は恐る恐る顔を上げた。するとその拍子に、月子の目から、幾筋もの涙が頬を伝って落ちていった。
「ふう。野乃原。約束を果たしたと言うのに、なんて顔をしているんです。まるで私が泣かしたようじゃないですか」
 田村は困ったような顔をしていた。
「君は涙腺が弱いんですね」
「そうかも、しれません」
 月子の答えに、田村は笑った。
「困りましたね」
 だが、次の瞬間真顔になった。
「野乃原。これから受験まで、短い期間とはいえ、まだまだいろいろなことがあるでしょう。その度に、君は泣くかもしれない。悔し涙。悲し涙。でもその涙はすべて勉強に向けてしまいなさい。君が流していいのは、合格の嬉し涙だけです」
 月子は目を大きくして田村を見た。そんな月子に田村は笑った。
「でも、合格後は泣くより笑って欲しいですね。生徒たちのその笑顔のために、私たちは頑張れるのですから」
 月子は嬉しく思ったが、半分呆れてしまった。
「……前から思っていたんですけど、先生ってキザですよね」
「のーのーはーらー。君は元気になると口が悪くなるんですから、まったく!」
 田村がそう言って、月子の頭をわしゃわしゃとなでた。月子は笑いながら、心の中で田村は天才だと思った。
(私を笑わせる天才。いや、きっと生徒を勇気付ける天才なんだわ)
 職員室を出ると、奈々美が心配そうな顔をして、フロアで待っていた。月子の顔を見るなり、
「月子! 大丈夫だった?」
 と尋ねてくる。月子は嬉しくなった。
「大丈夫だった! さ、教室いこ!」
 月子の返事に奈々美は笑顔になり、頷いた。


        3に続く……

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「高校生日記」「月に恋した」
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11月からの一ヶ月間です。よろしくお願いします。 (開催期間は2010年11月1日~2010年11月末日) 

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天音です。

月に恋した、ラストです。

えっと、実は、この物語は、出版した「いじめ闘争記」で描けなかった、
受験と恋愛をフィクション要素を多く入れて書いたものです。

ですので、「いじめ闘争記」が学校でのできごとなのに対し、
その裏側の「月に恋した」は塾での私を主人公にしています。

ですから、名前は変えてありますが、被っている友人や先生がいます。

ただ、いじめのことには、まったく触れておりませんし、
闘争記の方で、登場している重要な友人をあえて登場させなかったりしています。
そういう意味で、フィクション色がでているかと思います。

当時の私の、いじめだけでなく、普通の中学生が直面するだろう、
勉強面や恋愛の悩みを描きたかったから書いたものです。

特に、私はこの恋愛と呼べるか分らないような片思いで、人生が大きく変わったので、書いておきたかったというのがあります。

共感していただけたら幸いです。

(ちなみに、「高校生日記」は日記とありますが、全くのフィクションです!)


ココから小説



十二


 (今日も曇りだ)
 月子は学校の自席から、窓を通して空を見上げ、ぼんやりとしていた。
 数学の時間だ。学期末の結果が返されていて、教室は騒々しくなっていた。だが、月子はそんなことには無関心だった。
 冬の町は、生きているのに死んでいるような、寂しいと言うより、カラッポのような妙な気配がするので、月子は嫌いだった。
「野乃原」
 自分の名前が呼ばれて、慌てて答案用紙を取りにいく。確か自己採点では九十三点だったはずだ。先生から答案用紙をもらうとき、赤く書かれた予期もしなかった数字に月子は愕然とした。
「先生、これは!」
「野乃原。先生としても心苦しいのだが。
解答欄を見てみなさい。縦と横を間違っていたんだよ。野乃原らしくないな」
「!」
(本当だ!)
 月子は声も出せずにとぼとぼと自分の席に戻った。回りの騒がしさは、月子の耳には届かなくなっていた。初めての七十点台だった。
(内申、これじゃ五、とれない?)
 幻だったらと思った。
(駄目だ。落ちる)
 嫌味でなく、月子は学校のテストの成績はいつもよかった。塾でもケアレスミスをしないように何度も聞かされていたため、こんなミスはしたことがなかった。月子は絶望的になった。この点数を田村に報告するのかと思うとそれだけで頭痛がした。
 さらに追い討ちをかけるように、この日は技術家庭のノート提出日だったのに、月子はノートを忘れてしまった。
「今日中に持ってきなさい」
 そう先生に言われ、自転車でノートを提出しに行った。
 何とか受け取ってもらえて、家へ帰ろうとすると、雨が降ってきた。
 ずぶぬれになりながらも、自転車をこぐスピードを速めると、信号を渡ろうとしたとき、車と接触しそうになった。
(今日はなんだかついてない。私、もう駄目かもしれない。こんなときこそ先生の顔が見たいのに)
 家に着いてバスタオルで身体をふいて、誰もいないがらんとしたリビングに月子は立っていた。帰宅後、誰もいないのは珍しい。なんだか得体の知れない不安が月子を支配していた。
(恐い。恐いよ。落ちたくないよ。先生の声聞きたいよ)
 自分でも馬鹿だと思ったが、先生に今日の数学の結果について泣き言を聞いてもらいたくて、受話器をとり、電話をしようかしまいか、迷っているときだった。
 プルルルルル……プルルルルル……
 突然持っていた子機から音が鳴り出して、月子はぺたんと床に座り込んだ。
 プルルルルル……プルルルルル……
 とらなければ。月子は、
「はい」
 と返事をした。家のルールで、苗字はいつも名乗らない。
「月子ちゃん?」
 伯母の声だった。
「伯母さん……」
 月子の安堵の声に反するように、伯母の声は緊迫していた。
「月子ちゃん、お母さんはいる?」
「いえ、今は私一人ですけれど?」
「そう。仕方ないわね。
月子ちゃん、落ち着いて聞いてね。月子ちゃんのおじいちゃんが亡くなったの。お母さんが帰ってきたら、伯母さんに連絡するように伝えてくれる?」
(え……?亡くなった?
ソレハドウイウイミダッケ?)
 月子は伯母の言っている意味を理解するのに時間を要した。
「月子ちゃん? 聞いてる? いいわね? 落ち着いてね。頼んだわよ」
 早口に言って、伯母は電話を切った。
(何? 今日はなんなの? 死んだって、死んだって……)
 死因は転倒による脳出血だそうだ。なんだか他人事のようだった。
(脳出血? 誰が? 
悪い夢を見ているんだ、きっと)
 月子は独りリビングをうろうろした。どうしていいか判らなかった。母はまだ帰ってこない。父は単身赴任で、弟は塾だ。月子の頭はまさに混乱していた。誰かに助けてもらいたかった。安心させて欲しかった。

 月子は受話器をとった。
「野乃原? 私に用だと聞きましたが、どうかしたんですか?」
 塾に電話して、田村に替わってもらったものの、月子はなんと言っていいか判らなかった。ただ混乱していた。
「野乃原? どうしたんか?」
 耳元で響く田村の声に、自然と涙が溢れてきた。
「……泣いているのか? どうしたのか言いなさい」
「私、私、落ちます。もう駄目です。数学の期末が、解答欄間違って七十二点だったんです。内申が!
それに!おじいちゃんが!おじいちゃんが!死んじゃった!」
 最後の方は号泣していた。
「の、野乃原。とにかく落ち着くんだ。家には誰もいないのか?」
「いません!」
「今日は弟の光一君は塾に来ているな。伝えますか?」
 その言葉に月子ははっとした。今光一がこのことを聞けば、授業どころではなくなるはずだ。母に相談してからの方がいい気がした。段々、気分が落ち着いてきて、脳が正常に働きだす。
「いいえ。伝えなくていいです。
こんな電話なんかして、本当にすみませんでした」
 月子が謝ると、田村は一呼吸置いて話し始めた。
「野乃原。謝る必要などありませんよ。
いいですか。人生いろいろあります。出会い、別れ。苦しいこともあります。でもそれを乗り越えなければ……。今、こんなことになって大変だとは思います。でもこれは試練です。乗り越えて大きくなっていくんです。突き放すようですが、君にしかこれは乗り越えられないんですよ。誰も代わってあげられないんです」
「……そう、ですよね。解ってはいるんです。本当にすみませんでした」
 自分のした行動が恥ずかしくなってきて、月子はひたすら謝った。
「だから謝らなくていいんですって。力になれるかは解りませんが、何かあったらまた電話しなさい。最後まで頑張りましょうね、野乃原」
 受話器を置いて月子は自分の頬を叩いた。しっかりしなければ。祖父のためにも頑張らなければいけないときなのだ。解ってはいても、月子の気分は当然の如く沈んだままだった。

 母が帰ってき次第、制服に着替えて、途中塾で弟を拾い、お通夜に行った。

 久しぶりに従姉妹たちに会った。祖父母の家に来たのも久しぶりだった。家から祖父母の家までは車で三十分足らずである。行こうと思えば母が行くときに一緒に行けたはずだ。それを受験があるからと言って、月子は先延ばしにしていた。受験が終わってから行こうと思っていた。月子はそれをとても後悔した。もっと頻繁に会っておくべきだった。月子は自分をなんて冷たい孫なんだろうと思った。
 死に化粧をされた祖父の顔を見て、涙が溢れた。口は微かに開けられていて、目は閉じられており、頬にはつやがあった。まるで眠っているかのようだった。でも、生命の温かさは感じられないような気がした。巧妙に作られた蝋人形のようだ。
 もう祖父は、ビール瓶の蓋でワッペンを作ってくれたり、紙を折って様々なものを作ってくれたりはしないのだ。毎朝早くに起きて、ラジオ体操をする姿も見ることはないのだ。 涙が止まらない。
(おじいちゃん、会いに行かななくてごめん。ごめんね)


 葬儀。厳かに響く読経の中、月子は放心していた。誰の葬儀なのか、未だに実感がなく、認めたくもなかった。霊柩車に載せる前に、たくさんの花を入れた。月子は白い小さな鶴をいくつか折って、入れた。祖父が寂しくないように。祖母までつれていってしまわないように。そう願った。月子はそうしている間にも、まだ信じられなかった。本当に死んでいるのだろうか。眠っているだけで、起きてくるのではないだろうか。
 祖母が、声をかけていた。
「お疲れ様でした。ゆっくり休んでください。誠一さん。誠一さん」
 祖母は涙を流しながら、何度も祖父の名前を呼び、そしてその頬をいとおしそうになでていた。月子は自分もそのように、祖父の頬に触れたいと思った。でも、実際は触れたときの冷たさを想像すると恐くて、手が言うことをきかなかった。
(おじいちゃんなのに……)

ぽあー

 霊柩車が去っていく。それを追うように、月子たちもバスで火葬場まで行った。そこで最後の別れをした。
 光をあびた祖父の顔は、どこまでも穏やかだった。月子は気付いた。昨晩よりひげが伸びていることに。死んでも、爪やひげは伸びると聞いていたが本当だったんだな、と他人事のように月子は思った。そう、なんだか、やぱり実感がわかなかったのだ。
 ただ、これから祖父は焼かれ、もう、この顔も見られないのだ、と思うと、自然と涙がこぼれた。それからは泣きっぱなしだった。母が、
「月子だけが悲しいんじゃないのよ。私のほうが悲しいのだから」
 と言った。それは解っていた。母にとっては実の父なのだから。だが月子の涙は止まらなかった。そして、祖父が骨になるまでの一時間半、月子は泣き続けた。
 祖父の骨はとても、とても細くて、それは月子をひどく悲しくさせた。
(ああ、おじいちゃんはこんなにも弱っていたんだ)
 もう、涙も枯れてしまっていた。

 葬儀の後は、塾があったので、月子はそのまま授業にでた。集中しなくてはならない。月子が祖父のためにできることは、頑張ることだけなのだから。解っていた。でも、それは祖父を忘れることのように思えて、月子は罪悪感を覚えた。
(駄目だ。ちっとも授業内容が頭に入ってこない)
 祖父の骨を箸で拾ったときのことが、何度も何度も思い出された。
(あのおじいちゃんが、あんな骨に……)
 気がつくと授業は終わっていた。月子は母に迎えの依頼の電話をした。そして、ふらふらと塾の外に出た。一月下旬の寒さが月子を刺すように襲い、頬が切れるように痛んだ。 寒い、けれど寒くない。不思議な感覚だった。月子はとにかくカラッポだった。立っていても、地面に立っている感覚もなく、ただ、時折、自分が鼻をすする音だけが月子を現実に引き戻した。
「野乃原」
 だからその声に気付くのにも時間がかかった。ふと声の方を向くと、ワイシャツ姿で肩をすくめて、田村が隣で月子を呼んでいた。
「さっきから呼んでたんぞ。寒いから、塾の中に入って待っていなさい。風邪ひきますよ」
 田村が自分を心底心配してくれていることは、月子にも解っていた。だが、そのとき月子は、素直に田村の言葉に従うことができなかった。もう、世界なんてどうでもいいと思っていた。
(だって、どうせ人は死ぬんだもん。世の中にはどうにもならないことがあるんだ。無意味だよ。全て無意味)
 祖父が聞いたら、悲しむようなことが頭の中を巡った。だから。
「いーんです。もうひいてますから」
「だったら尚更!」
 田村にあたってもしょうがないことだ。それに、受験を控えているのに風邪をこじらせていいわけない。解ってはいる。解っては。でも。月子は無視をしてしまった。田村は諦めたのか、塾へ戻って行った。
(ふん、どうせ、そのくらいの気持ちなんじゃん)
 とかなり失礼なことを思いながら、月子は母を待ち続ける。車が混んでいるのか、なかなか母は来ない。三十分ぐらいそこに立っていただろうか。
「野乃原。まだ来ないのか。いい加減に中に入りなさい。体が冷えているぞ」
 田村がまたやってきて、月子のダッフルコートのフードをかぶせようとした。月子はそれを無造作に払った。
「もういいんです!どうでも」
「野乃原……。気持ちは解りますが君がしっかりしないと。
ほら寒いだろう」
「寒くありません!」
 田村の言葉に瞬時に答える。
「先生こそ、その格好、寒そうですよ。早く塾に戻ったほうがいいですよ」
「では、私のために入ってください。風邪をひいてしまいます。頭下げますから」
 先生というのはどうしてここまでしてくれるのだろう。月子は田村の優しさにちょっと涙が出そうになるのを堪えて、
「先生だけで入ってください。多分母ももうすぐできます。私は……今はここにいたいんです」
 一度意地を張るとひけなかった。月子は田村に謝る気持ちで頭を下げて断った。田村は何ともいえないような表情を浮かべて塾に入っていった。それから十分後、母が来た。その頃にはすっかり月子の体は冷えきっていた。


十三


 結果というものは少し遅れてついてくるものだ。
 それは、最後の志望校面談の資料となる模試。月子がさぼった結果がはっきりと表れることとなった。自己採点でそのことは解っていた。だが、母の隣で、月子は落ち着きなく、田村が模試の結果用紙を探し出すのを見ていた。その田村の様子からも、結果がよろしくないことが窺えた。
「えー、これですね」
 田村は月子の目をいたわるように見つめながらその紙を差し出した。隣で母の動揺する気配。月子は、ゆっくりとその用紙に視線を落とした。解ってはいた。が、やはり動揺は否めなかった。判定は「B」だった。
「五月の志望校面談のときに野乃原自身が言っていたように、この判定は目安でしかありません。これはあくまでも、確率ですからね」
 珍しく、田村がいいわけめいたことを言った。月子を気遣ってだろう。
「つ、月子? あの、志望校下げてもいいのよ? 確実な方がいいでしょ?」
 母が月子の顔色をうかがいながら言った。月子は。しばらく黙っていた。
「……君が決めることです。でないと後悔しますからね」
 田村が静かに言い、月子はその言葉を黙って、でもしっかり心で聞いた。後悔はしたくない。
(私はどうしたいの?)
 月子は五月の自分はかなり驕っていたのではないかと思った。「B」判定をもらって、「A」判定の重みがわかる。やはり、いざ「B」判定をもらうと、五月のときよりこんなにも不安で、恐い。
 しかし。しかし、だ。「C」判定で大体二分の一の確率だ。二分の一の確率は現実では高い方である。
(だから、判定で決める必要は、ない、かも)
 自己催眠のように月子はそんなことを無理矢理思った。
(だから、私がどこを受けたいかなんだ。私は)
 月子は。
「志望校は、下げません」
 月子はきっぱりと言った。
「月子? む、無理しない方が」
(志望校を下げたら、頑張らずに終わってしまうかもしれない。それじゃ、学ぶ姿勢は学べない。私は、勉強を受験勉強だけで終わらせるのは嫌だ)
「下げません。修英館を受けたいんです」
 月子は田村の目を静かに見つめた。田村はその月子の目を見て、月子の決意を悟ったようだった。
「解りました。
野乃原、一緒に頑張ろうな」
 田村の笑顔に月子も笑顔を返した。母はもう何も言わなかった。ただ、車での帰り、
「やるだけ頑張りなさい。お母さんたちも応援するから」
 と言ってくれた。
「うん」
 月子は祖父にも誓うように返事をした。 


十四


「野乃原、聞いてますか?」
 田村に言われ、月子は、
「聞いてますよ」
 と返事をする。もちろん、聞いているのだが、月子は田村のシャーペンが気になっていた。ドクターグリップの書きやすそうなシャーペンだ。
「野乃原? なんだ、シャーペンが気になるのか?」
 どうやら田村も月子の視線に気付いたようである。
「え? は、はい。書きやすそうだな、なんて。今度買おうかなーって」
 正直な言葉が出てしまった。
「だったら、あげましょうか? 受験当日は使えないが、勉強のとき、お守り代わりに使うというなら」
 田村が意外なことを言ってくれた。
「え?いいんですか? わーい。えへへ」
 同じものを持っているだけでもいいと思っていた月子にとって、「田村の」というのはますます貴重なお守りになりそうだ。
「? そんなに嬉しいですか? 君は変わってるな。
それで、ここは解ったんですか?」
 単純な月子に田村は笑みをこぼしながら言った。
「はいっ! 解りました。ありがとうございます。よーっし、このシャーペンで今以上に頑張ります!」
「お願いしますよ」
 こんな些細で幸せな事件は、月子の勉強漬けの生活に潤いをもたらしてくれた。逆も然りであったが、さすがに受験が迫っているため、傷つこうが、悲しもうが、とにかく勉強をできるだけした。
 シャーペンをもらってから、月子は、数学の勉強のときにそれで勉強をするようになった。使う前に、ちょっと幸せな気分になり、使い始めてからは、田村のように数学ができるように! と祈りながら数学をした。


 私立受験が間近に迫っていた。月子は、公立本命を狙うことにしたため、私立はワンランク落としていた。とはいえ、女子高の中では有名どころだ。気は抜けなかった。なんせ私立を落ちたら、行くところがなくなってしまうのだから。月子はとにかく勉強した。模試の成績はというと、落ちるのは早くても、上がるのは難しく、一定のラインでわずかに上下を繰り返していた。
(当然といえば当然なんだよね。私が勉強しているように、他の人も勉強しているのだから。だから、上に行くには人の何倍も勉強しないといけないわけだ。ふう。これ以上どうやって勉強時間を増やせばいいのだろう)
 月子がため息をつきながら、フロアで靴を履こうとしていると、田村がやってきた。
「大きなため息ですね。君でも悩むことがあるんか」
 田村の声に、月子は眉間にしわを寄せた。
「失礼ですね。こんな私でも悩みはたくさんありますよ。というより、悩みがない人のほうがおかしいんじゃないですか? 人は現状より、向上したいと思うから悩むんですよ。悩まない人は、現状に満足しきっている人です。でも、そんな人間なんて、少ないと思いますよ。人間は欲深いから」
 月子は不機嫌にそう言った。田村はというと、目を少し見開いて、くすくすと笑い出した。
「何が可笑しいんです? 私はいたって真面目に答えたつもりですが」
「いやー、君の自論は実に興味深い。私は好きですよ。 
でも、そうか。君たち世代もいろいろと思うことがあるんだな」
 楽しそうに言う田村に、
「先生もきっと、私たちの年のときだって悩みを抱えていたと思いますよ」
「そうだったんだろうね……」
 田村は感慨深げに頷いた。
「で、何を悩んでいたんですか?」
 思い出したように聞いてきた田村に、月子は答えた。
「勉強時間についてですよ。どうあがいても時間には限界があります」
「じゃあ、質を高めることですね。無駄な勉強は省きなさい。例として、毎回テキストの始めのページから勉強をしだす人がいますが、それは無駄です。理解しているところはとばしていいんです。自分の理解できないところだけをとにかくやりなさい。ある程度悩んだら、先生に聞くのも時間の短縮ですよ」
 当たり前と言えば当たり前の答えが返ってきた。でも、そういう勉強ができていない自分に気付いて、月子ははっとした。
「なるほど。ちょっとやり方を変えてみます」
 真面目に頷いた月子に、田村は目を細めて笑った。
「頑張ってください」
 月子は田村のこの言葉に弱い。
「はい」
 月子は大人しく頷いた。


 好きなことをしているときは時間が短く、逆に嫌いなことをしているときは長く感じられるというのは、よくあることだ。だが、やらなくてはならないことが多くあるとき、それが、好きであろうが、なかろうが、時間は短く感じられるものなのだな、と月子は最近痛感している。
 もう私立まで数日だ。今まで勉強してきた。だが、まだまだ足りないという不安が襲ってくる。
 田村だらけの夢に、受験当日の夢が出てくるようになったのもそのせいだろう。夢の中で月子は、問題用紙を一箇所を凝視していて、そこの勉強が足りなかったことを後悔するのだ。
(解らない。どうしたらいいのだろう)
 そこで夢から覚める。夢で鉛筆を強く握り締めていたせいか、目覚めると手がこわばっている。そして、多量の汗。
(勉強、しないと)

 気持ちが焦るばかりの日々。とうとう迎えた私立受験二日前。この日、塾では激励会があっていた。だが、月子は熱を出した。翌日は下見をしないといけないので、塾は授業がない。
(先生に、頑張れっていってもらいたかったな……)
 ベッドに横になり、時折英単語帳を見ながら、田村を思った。
 思えば、田村のおかげでここまで来れたようなものだ。田村に恋をして辛いことのほうが多かった。田村には妻子がいるし、先生と生徒という境界もあった。それから、田村の熱狂的なファンの存在。素直になれない自分。でも、辛くても、月子は、田村に恋したことを後悔しないだろうと思った。
 田村は本当に素晴らしい教師で、月子の夜道を優しく照らしてくれた。たくさんのことを学ばせてくれた。今まで味わったことのないような感情を味あわせてくれた。田村との些細な会話全てが月子にとってキラキラした宝物だ。
(先生……)
 熱のせいもあり、月子がうとうとしかけた時だった。
「月子、田村先生から電話よ」
 月子の意識は覚醒した。
「野乃原、具合はどうだ?」
 祖父が亡くなった日以来の、田村の受話器越しの声。その声は優しさに満ちていた。
「君は繊細だから、緊張が体のほうにもでてしまったのかもしれないね」
 月子は微笑んだ。
「先生、いつもと言ってることが逆です」
「本当はこう思ってるんですよ。
あー、君を激励できないのは残念でした。それに、当日私は君の受ける高校には応援に行けませんし。なんだか心配になってきたなあ。お守りにシャーペンを持っていきなさいよ」
 先生は本当に心配そうに言った。
「はい。あのシャーペンですね。苦手な数学ができるように、持って行きます」
「明日は下見に行くんだな? そしたら、今日のうちに治さないといけませんね。何事も、健康な体あってこそです。今日はゆっくり休みなさい。君の場合、焦って無理をしそうですから、釘を刺しとかんと」
 田村の言葉一つ一つが嬉しく、月子の頬は緩みっぱなしだった。
「はーい」
「では、当日、受験後、塾に寄んなさいよ。おやすみ」
「おやすみなさい」
 受話器を置いても、耳の奥がまだくすぐったい。田村と「おやすみ」という言葉を交わすのは、とても気恥ずかしく、心臓が早鐘を打った。熱が少し上がった気がする。
(こらこら、先生の言うとおり、今夜中に風邪を治さないと)
 月子は心の中で、もう一度田村に「おやすみなさい」と告げると、目を閉じた。

十五


 私立受験当日。その日は寒かったが、月子の頬は燃えるように熱かった。心臓がうるさい。前日に下見をした高校の前には、たくさんの受験生が群がっていた。その中に見知った顔を見い出せずに、心細くなっていると、
「野乃原!」
 英語の浜山が声をかけてきた。
「先生」
 少し安堵して、月子は微笑んだ。
「寒い中大変ですね」
「君たちの緊張を少しでも解きたいからね。あ、そうそう。田村先生から伝言があるぞ。十番以内で合格しなさい、だそうだ」
 月子は顔をしかめた。
「何ですか、それ」
「田村先生流の激励言葉だろう。それから、落ち着いて頑張るように、とのことだ」
 月子は笑顔になった。
「了解、とお伝え下さい。では、頑張ってきます」
「おう、野乃原なら大丈夫だ! 頑張って来い!」
 浜山の力強い言葉に勇気付けられて、受験会場の教室へ月子は足を踏み入れた。そのとたん、
(寒い、というより、冷たいの域だな、この空気は)
 空気がピンと張り詰めていて、月子はまた緊張しだした。心臓の音が時計の針の音よりも早く、大きく聞こえる気がした。
(うるさい。うるさいよ。心臓!)
 震える手で鉛筆と消しゴムを取り出す。そして、トイレに向かった。かなり並んでいる。
(時間がもったいないな)
 月子がイライラしながら待っていると、並んでいる女子たちが公式などを確認しているのが聞こえてきて、月子はますます緊張した。自分だけ馬鹿のような気がしてくる。トイレから戻るなり、慌ててポイントをまとめたノートを読み返した。が、それらは目には入るが、脳が理解をしてくれなかった。

 これまでたくさんの模試を受けてきたが、受験は一度きりだ。緊張するのも無理はない。しかし、失敗は許されない。
 受験監督の先生が教室に入ってきた。いよいよだ。問題用紙が配られる。このときほど緊張するときはないだろう。呼吸が速くなる。
「はじめ!」
 先生の声と同時に月子は問題用紙をめくった。見たことのあるような、ないような問題が並んでいる。とにかくやるしかない。月子は他の生徒がページをめくる音を気にしながらも、とにかく自分のペースで、正確に解くことを心がけた。鉛筆が汗でぬるぬるして気持ちが悪い。それでも、試験時間が終わるまで、何度も何度も見直しをした。そして、長く、短い時間が終わった。

  「緊張したか?」
 帰りに塾によると、田村が声をかけてきた。
「はい、とても。でもシャーペンがあったから、数学のできはまあまあだと思います」
 月子の返事に、田村はそうか、と笑った。
「ま、これで受験が終わったわけではない。公立が本命ですからね。気を抜かないように」
「はーい」
 と答えつつも、いつもより月子を含む生徒たちはハイテンションだった。私立入試が先にあるのはいいことだな、と月子は思った。本命の前に、予行練習ができる。受験の空気も少しわかった気がした。だからといって、公立入試で緊張しないということはありえないだろうが。
 そして、私立対策だった授業が、この日から公立対策の授業に変わった。本番はこれからだ。


 さすがに学校の方も受験ムードになっていた。自習時間が増えたが、ざわつかなくなっている。月子は学校では奈々美とゆりと解らないところを教えあいながら勉強をした。そして、塾では相変わらずハードな授業を受けて、質問をして、帰宅後も一時まで勉強をして眠る、という毎日が続いた。
 塾で質問をしに職員室に入ると「どーしたんか?」と田村が真っ先に声をかけてくれる瞬間が、月子にとって癒しのひと時である。
 が、私立入試の合格発表が近づくにつれて、生徒たちは落ち着きをなくしていった。
 そして、とうとうその日が来た。学校の教室で待機している生徒、一人ひとりの名前を、順々に担任が呼ぶ。月子もドキドキしながら呼ばれるのを待った。早く聞いちゃいたいような、でも、聞きたくないような。そんな時間はとても長く感じられた。
「野乃原」
「はい」
 呼ばれて、隣の教室へ入る。そして恐る恐る先生の顔を見る。そんな月子に先生は、
「よかったな。合格だ」
 と一言言った。月子は一気に力が抜けていくのを感じた。
「まあ、これで、公立へ打ち込めるだろう。修英館は難しいが、頑張りなさい」
「はい!」
 奈々美もゆりも合格していて、三人で喜びを分かち合った。

 その日、塾に入ると、いつも愛らしく京都弁で話している朱梨の顔色は悪く、ふさぎこんでいるようだった。回りからこそこそと聞こえてきた言葉に、月子は絶句した。
 朱梨は私立を落ちてしまったとのことだ。朱梨は月子が避けた、最難関の私立を受けていた。
 そうだ。受験というのはそういうものだ。受かる人がいるということは、落ちる人がいる。解ってはいる。でも、みんな頑張っているのにと思うと、落ちるということが納得がいかなかった。特に、朱梨の頑張りを知っているからこそ。
 月子はかける言葉もなく自分の席についた。朱梨を見ていると、自分が受かった代わりに落ちた誰かを想像して、なんだか気分が悪くなった。合格を素直に喜んでいいのだろうか? その日の授業の間、月子はそんなことを考えていた。

「失礼します」

 授業後、英語の質問をするために職員室に入った月子だが、いつものように田村が声をかけてこないことを不審に思った。そして、田村の席を見て、そこに朱梨の姿を認めたとき、月子は職員室に入ったことを後悔した。だが、入った手前出られない。仕方なく、当初の予定通り浜山に英語の質問をした。が、耳は田村の言葉を拾っていた。朱梨は泣いていて、田村はその彼女を一生懸命慰めていた。当然のことだ。それでも、田村が他の女子に優しくしているのを見るのは辛い。
 暗くどろどろとしたものが胸中で渦巻く。心がズキズキ痛くて苦しい。体が飛んでいって、魂だけ地上に残された感じだ。なんだろう、この感覚は。
「数学のときは私が乗り移ってあげますから」
 その田村の一言を聞いたとき、月子の心は砕けた。優しい声だった。
(何? 何を言っているの? やめて。ズルイ。イヤダ。そんな言葉聞いたことない)
 醜い感情が蠢き、とめられない。
(待って、冷静に考えて)
 朱梨は落ちてしまったんだ。それはどんなに悲しく、心もとないことだろう。
(私はじゃあ、あの言葉をもらえるなら、受験に落ちてよかったとでもいうの? 否。どっちも欲しがるなんて、意地汚いよ。それに、それに。友達のことを気遣えないなんて私は最低だ! 汚い! 汚れている!)
 涙がにじんできた。
「野乃原?」
 浜山が声をかけてくる。
「す、すいません。ちょっとトイレに行ってきます」
 月子は下を向いたまま、職員室の床に涙の雫を数滴残して、トイレに駆け込んだ。月子は自分が嫌になった。自分はなんて酷い人間だろうと月子は思った。友達を気遣えないなんて。こんなに醜い心では、田村の前にいられない。月の光はどこまでも清浄で、月子の醜い心までを照らし出してしまう気がした。そしたら、田村はどう思うんだろう。月子はトイレでしばらく泣いて、醜い心を流し去ろうとした。そして顔を洗うと再び職員室に戻った。
「野乃原? どうしました? 気分が悪そうだが」
(朱梨ちゃんに甘く囁いた声で、私に声をかけないで。
それより何より。醜い私を見ないで)
 声をかけてきた田村に、月子は普通に接することができなかった。口から滑り出た声は感情のない冷たい声になっていた。
「英語の質問があるので」
 田村は一瞬、たじろぎ、
「そうですか」
 と言って離れていった。苦しい。田村を傷付けることをどうしてしてしまうんだろう。
(とにかく、今は英語だ。田村先生には、接するほどに、酷いことをしてしまうのだから)
 月子は英語に集中した。
 そして、帰り際。田村が何か言いたそうにしているのは感じ取れたが、それを無視して、月子は塾を出、車を待った。



 最近入試のことでいっぱいいっぱいで、大好きな月さえ見ていないな、とふと思った。月子には月明かりによる影ができていたからだ。
(でも、今は見ないほうがいいのかもしれない)
 月子は思った。田村を思い出さずにはいられない月。どこまでも清いその光。月子に見る資格はない気がした。
(朱梨ちゃん、ごめんね。私、酷い友達だ)

 
 それからは、月子は入試まで、周りを見る余裕さえなく勉強をした。
 田村は生徒が合格したときの笑顔を見るのが楽しみだと言った。月子は自分のために、そして、田村のために、黙々と勉強した。不安にならない日などない。だが、入試までもう後、数日だ。月子はスランプだったときと同じように泣きながら、でも、勉強した。田村のシャーペンを手に。
 友達や先生との会話だけが、月子を勇気付けた。特に、田村の優しい言葉は月子の心を温かくした。嫉妬に苦しむ日々も相変わらずあったけれど、いいことばかりが恋ではない、月子はそう思うようになっていた。
 今は勉強が最優先。合格したとき、自分が成長できるのではないかと月子は信じて頑張った。だが。
「月子、田村先生からよ」
「……はーい」
 月子はまた入試の二日前、熱を出して寝込んでいた。自分の精神の弱さを呪う。
「君は私に激励をして欲しくないんですかねえ」
「そんなことはありません」
「体の調子が悪いと、頭も働きません。私は君が心配です。最後の綱渡り。ふらふらの状態でして欲しくないですからね」
 田村が月子の言葉を覚えていたことに、月子は少し嬉しくなった。
「そうですね。頑張って治します」
「頼みますよ。私は君の笑顔が見たいんだからね」
 優しい田村の声が、月子の体中に染みとおっていく。
「じゃあ、先生を喜ばすために頑張りますよ」
「嬉しいことを言ってくれますね。ですが、受験はあくまで自分のためです。あなたの将来のために、後悔しないために、頑張ってください」
「了解です」
「当日、応援に行きますんで、そのときは元気な顔を見せてくださいよ」
「努力します」
「では、ゆっくり休んでください」
「おやすみなさい」
 まさか、また電話がかかってくるとは思わなかったので、月子はこのビックリプレゼントに感謝した。風邪をひくのもいいかもしれない、なんて思うほどだ。
(いけない、いけない。今までやってきたことを無駄にしないために、最善を尽くそう)
 月子は思いなおして、眠りについた。

十六

 決戦の日の朝は、まだ少し寒かった。月子の体は万全とはいえない状態だ。だが、だからといって落ちるわけにはいかない。
 受験表を持つ学生たちの中に、見知った顔がちらほらする。
「月子」
 背中を叩かれ、振り返ると奈々美がいた。
「熱は大丈夫? 頑張ろうね。一緒に受かろうね」
 月子は強く頷いたが、その指先はいつもにも増して冷たく、なのに頬は熱く、心臓が、百メートルを全走カで走った後のように波打っていた。
「野乃原」
 聞き慣れた田村の声に、月子は反射的に振り返った。田村は笑っていて、
「君なら大丈夫ですよ。だからリラックスして臨みなさい」
 と言って月子の肩を叩いた。その田村の言葉にも、月子は頷くことしかできなかった。昨日、下見をした古い校舎が月子の目の前にある。綱渡りは今日で終わりだ。

 最後までどちらに転ぶかは分からないけれど。

 たくさんの学友。先生。どれだけ支えになってくれたことか。でも、ここからは皆一人。
 考えてみれば、これまでは与えられてきてばかりだった。でも、この入試は、初めて自分で選び、勝ちとるべきものだ。誰も与えてくれない。そして、これは始まりで、これからは、自分で手に入れなければならないことばかりになるのであろう。
(この綱渡りは終わるけれど、それは、新しい綱渡りの始まりでもあるんだ。さあ、私の目標を探すためにも、この入試を乗り越えよう)
「……行ってきます」
 月子の言葉に、田村は、一瞬首をかしげて、でも笑顔になって、
「行ってらっしゃい」
 と応えたのだった。月子が歩き出すと、後ろで田村が他の生徒にも激励しているのが聞こえた。でも、今の月子はそれを気にしている余裕はなかった。
(嫌いなテスト。でも避けられないテスト。そして、人生もが変わるテスト。恐いよ。でも逃げられない。やるだけやるんだ)
 教室に入り、自分の席につくと、月子は必要最低限の筆記用具を机上に並べ、その隣に受験表を置いた。足がガクガクしていた。試験監督の先生が入ってきて、月子の心臓はますますドキドキした。そして試験は始まり――。その後の月子の記憶はあやふやだ。


 その夜、窓から久しぶりに見た月は冬の終わりを告げていた。冷たかった銀色の光が温かさを帯びている。
(とりあえず、終わった……)
 その月を見ていると、悲しい訳ではないのに、涙がこぼれた。カーテンが月子の頭をなでるように揺れていた。


 卒業式。あっけないものだった。自分が三年間過ごした校舎を、胸に刻むように月子はじっくり見た。大好きだった桜並木も。桜は、新しいスタートをきるためのエネルギーを蓄えた、月子たちのように、まだ蕾だった。そして、奈々美を含む仲のよかった友達たちと写真をたくさん撮って、言葉をかけ合った。もうこの校舎に来ることはないのだ。そう思うとそれはとても不思議で、不安で、寂しかった。
(高校はどんなところだろう)
 月子の受けた修英館は自由な校風がうりである。そして、個性的な人が多いと聞く。文化祭、体育祭は地区でも有名だ。きっと楽しい三年間が送れるはず。
(ってまず受かってないと、女子高だ)
 まあ、そうなっても興味深いが、月子は女子の、グループを作るところが好きではなく、それを考えても、また、家に負担をかけることを考えても遠慮したいことだと思った。
(高校の三年間も、すぐに過ぎていくんだろうな。この三年間のように)
 それを思うと、大切に過ごそうと月子は心から思った。

 その夜、田村から電話があった。
「卒業おめでとう。早いものですね」
「そうですね。先生の言ってた通りでした」
「君にしては自己採点、点が出てなかったな。ま、厳しめにつけたんだろうが」
 受験の話になって月子は心が重くなった。実際、合格と不合格のライン際にいることは間違いない気が自分でもしていた。
「はい。不安です」
「でも、頑張ったなら悔いは残りませんよ。
……君は感受性が強いと言うか。いい子だったよ」
 「いい子」というフレーズに、当然だが、子ども扱いをされているのを実感して、月子は悲しくなった。それを悟られないように、
「でもたくさん迷惑をかけましたよ」
 と言い返した。
「私はそうは思いませんよ。こう言ったら怒られそうですが、いじめるのが楽しかったです」
 と田村は笑いながら言った。だから、月子も言った。
「私もです」
「どこがですか?」
「顔に出るところがです」
「君に言われたくないな。人の顔で遊ぶのも困り者ですね」
「おあいこです」
 互いに受話器ごしに笑い合った。
「たまには遊びに来なさいよ」
「そんなこと言われたら、毎日でも行っちゃいますよ」
「高校に行っても頑張りなさい」
 いつもより優しい田村の声に、
「先生も体に気をつけて頑張ってください」
 と素直に言葉が出た。
「私、強いんですよ」
「見かけから細いじゃないですかー」 
 切るのがもったいない電話。月子は延ばそうと必死だった。
「塾を休まないのは私ぐらいです」
「そりゃ、熱があっても塾に来るのは先生ぐらいですよー。過労死しますよ。気をつけてください」
「それほど仕事人間ではないので大丈夫ですよ」
(そうは見えませんでしたよ。先生はいつも自分を犠牲にして塾に来てるように見えました)
 心の中で月子は返した。
「……それじゃ、元気で」
「……先生も」
 このとき月子の目からは大粒の涙が溢れてきていて、それを悟られないようにするので精一杯だった。だから、言うのを忘れてしまった。「先生、ありがとう」と言う言葉を。受話器を置いて、しばらくしてからそれに気付き、月子はとても後悔した。


 修英館の合格発表があったのはその数日後で、月子はかろうじて合格していた。その日、田村たち塾の先生方も高校にやってきていて、生徒たちの笑顔を見て嬉しそうに微笑んでいた。
「よかったですね。安心しました」
 田村の、嬉しそうな、そしてどこか寂しそうな笑顔は月子の脳裏に深く刻まれた。


十七


 月子はその後塾を訪ねることはなく、田村との会話という会話も卒業式の日の電話が最後になった。しかし、高校を卒業し、浪人をし、大学を出、就職をし、結婚をしても、月を見るとやはり田村を思い出す。そして、伝えられなかった「ありがとう」と言う言葉と、叶えられなかった教師になる夢に、少しの心残りを覚え、夢を叶えた友人に、賛美を送りたくなる。しかし、現在の月子が原因ゆえの結果なのである。月は月子の道を照らしながらそう言っている。

 月子は隣に座る男性を見た。いろいろあったが、夫を選ぶ目は確かだったと月子は確信している。
「あなた、綺麗な月ね」
「そうだね、月子」
(私は月に恋をした)
 きっと誰もが、忘れられない恋を、日々を、心に持っている。友人。先生方。特に、田村と何気なく交わした会話は、知らず知らずに自分を成長させたと月子は今思う。それはかけがえのない思い出という宝物で。きっとあの日々がなかったら、今の月子はいない。
(その私が愛したのはこの人)
 それでいいと月子は思う。そして、これからも月は道を灯してくれるし、隣にいて、人生を共にするのは愛する人なのだ。           
                       
                       おしまい


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